17-06 最後の言葉

 ハルド・クレイは弱り果てて首をかしげていた。
『コリュボス』への異動を知らされたとき、真っ先に頭に浮かんだのはセレスのことだった。
案の定、セレスはハルドの言葉を聞くなりそそくさとクローゼットを開け、大きなバックを取り出して次々に荷物をそこに放り込み始めた。
「何してる?」
ハルドが呆然として言うと、セレスは「ん?」というように兄を振り向いた。
「荷物まとめてるんだよ。だって、あさってには発つんだろ?」
当然のように答える弟をどう説得すればいいか途方に暮れた。
「おまえは学校があるだろ?」
「転校手続きするだろ?」
再び荷物を詰め込み始めるセレスに、ハルドはため息をついて弟の腕を両側から掴むと無理矢理一緒にベッドの端に座らせた。
「どう考えたって……」
「行く」
兄の言葉を遮るようにセレスは言った。
「絶対、一緒に行くからな。絶対」
挑みかかるような声だった。
「お母さんが許してくれるわけがないだろ?」
「兄さんの荷物に潜り込む。密航してやる。ひとりで行く。それくらいのお金はおれだって持ってる。だから行く」
あのときのことを思い出すと、いつも可笑しくて笑いがこみあげる。
もちろん、当時は笑うどころではなかった。
顔を真っ赤にして頑として一緒に行くと言い張るセレスと、泣き出す叔母のフェイの間に立って疲労困憊した。
思えばあれが始まりだったのかもしれない。
あの時、もし自分が『コリュボス』に異動にならなければ、あるいは、どんなに駄々をこねてもセレスを連れて行くことなどなければ…… セレスはケイナと出会うことはなかった。
こんな大きな歯車に巻き込まれることもなく、何も知らないままで短いながらもみんなが当たり前の人生を終えていた。
でも、その代わりに会えていたはずの人に出会わずに終わってしまっただろう。
セレスにとってはケイナだけでなく、アルという友人を持つこともなかった。
時間の流れの選択肢はいったいいくつあるのだろう。
万? それとも億単位? いや、きっと人知を遥かに超えた選択肢なのだ。
自分で選んで来たのだろうか。それとも、選ばされていたのだろうか。
ハルドは自分の手を見つめた。
セレスとケイナが助け出されて、ケイナは自分と同じ場所で治療を受けることになったと聞いたとき、手術を受けることは怖くないと思った。
ふたりに会えるのなら、どんな過酷な手術でも受けて必ず生きていこうと思った。
今まで育ててくれた叔母と義理の父にも何もしてやれていない。
やり残したこと、見届けられなかったことがたくさんある。
だから、今度もまた、何万、何億もある選択肢から、自分はこれを選んだのだ。
いや……
今回は2つだったのかな……
死ぬべきだったのか。生き残るべきだったのか。
ぼくは間違えたのだろうか。
選ぶ道をいつもいつも、間違えてきてしまったのだろうか。
鏡に映った自分の姿を見た時、何をさせられようとしているのかを悟って呆然とした。次の瞬間には自らの手で鏡を叩き割っていた。
時間がない。
あっという間に『あいつ』が出てくるだろう。
ケイナに会わなければと思った。
彼ならきっとできるだろう。
こんな血の通わない体でも、彼なら相手にできるだろう。彼はそういう少年だった。
どうすれば相手を葬ることができるか、きっと瞬時に悟るだろう。
ケイナ。
結局ぼくは一番嫌なことをきみに託すことになるんだな。
『あいつ』は自分の意思で動いていると思い込んでいるだろう。
迷うことはない。ぼくも迷わない。迷わないことにする。
今度の選択肢は間違っていないと思うよ。
ぼくは帰るべきところに帰るのだから。
唯一の心残りがあるとすれば、セレスの顔を見たかったことだけれど。

 全員が息を詰めて『彼』を見つめていた。
『彼』はセレスをじっと見つめたあと、切り落とされたほうの腕を動かしかけ、そして気づいて「ああ、そうか」という表情を微かに浮かべた。
その目をケイナに向けた。彼の視線の意図を感じてケイナは顔をこわばらせ、その後小さくかぶりを振った。『彼』はそれを見ると一瞬目を伏せて片手でサーベルを構えながらゆっくりと後ずさりし、離れていった。
やがて端まできて、あと一歩で後ろがなくなるというときに『彼』は足を止めた。
はるか下に底の見えないダム湖の水面が広がっている。
『彼』は笑みを浮かべた。
「瞬きを数回」
『彼』は言った。
「それだけでも、会えて良かった」
穏やかな笑みを浮かべながらサーベルを持つ手がゆっくりとあがり、その刃が首にかかる寸前ハルドは大きく後ろに倒れ込んだ。