11-02 Remember your hand

 『ホライズン』ではドアーズがセレスの部屋で待っていた。
「詳細はご子息にお知らせをしておきましたが、月に2回ほどは診察を受けさせてください」
彼は言った。
「それと、これは1日1回、朝食後に服用を」
ティはドアーズが差し出した薬の袋を受け取った。たくさんの錠剤が詰め込まれている。
「ごく軽い精神安定剤です。環境が変わりますから、念のため」
ドアーズの言葉にティはうなずいた。
セレスに目を向けると、彼女は不安そうな顔をしてベッドの端に腰をかけていた。
白いざっくりしたセーターに細身のパンツとブーツを履いている。たぶんリアが見立てたものなのだろう。
「セレス」
近づいてティが声をかけると、セレスは少し怯えたような顔を彼女に向けた。ティは笑みを浮かべてセレスの顔を覗き込んだ。
「こんにちは。ティ・レンといいます。リィ社長の秘書です」
「リィ社長……?」
セレスはまじまじとティの顔を見た。
「カインさんのことよ」
「カインに会えるの?」
セレスの目が大きく見開かれた。子供のようにあどけない表情だ。
「ええ、もちろん」
後ろに立っていたケイナがかすかに眉をひそめたことをティは知らなかった。
「カインさんのビルと同じ場所にあなたの部屋を用意したわ」
「いつでも会える?」
ティは首をかしげた。
「そうね…… 社長のお仕事の邪魔にならなければ」
「嬉しい」
セレスはそうつぶやいてにっこりと笑い、膝に置いていた自分の手をぎゅっと握り合わせた。
「荷物はこれだけ?」
ティは彼女の足元にあった小さなバックを取り上げた。セレスはうなずいた。
「リアが持って来てくれた石とか、入ってる」
「石?」
ティは怪訝な顔をした。
「きれいなの。だから持って行きたい」
セレスは答えてティの顔を覗きこむように見た。
「リアは?」
ティは少し視線を泳がせた。
「ちょっと用事があって『ノマド』に帰ってるの。でも、また戻って来るから」
「そう」
セレスは特に疑問も感じず受け入れたようだ。
「じゃ、行きましょうか」
ティがそう言ってセレスの腕に手をかけたとき、いきなりセレスは彼女の手を払いのけた。
ぱしん、という大きな音に、ティはびっくりしてセレスを見た。
「あ……」
セレスの目が大きく見開かれた。
「ご、ごめん…… ごめんなさい…… ど、どうしたんだろ……」
戸惑ったように言うセレスを見て、ケイナの目が細められた。
セレスの言葉使い。セレスと『グリーン・アイズ』が交互に出てきている?
「気にしないで」
ティは気をとりなおして笑みを浮かべた。そしてもう一度手を伸ばしたとき、セレスは言った。
「触らないで!」
険しい口調にティの表情が固くなった。思わずドアーズを振り向くと彼は肩をすくめた。
「これが今の状態ですよ。感情が万華鏡のようにくるくる変わります。本人も抑制が効かないみたいでしてね。あまり深刻にならず、長い目で見てあげてください」
ティは戸惑いながらもうなずいた。そして再びセレスの顔を覗きこんだ。
「ごめんね。あなたの好きなようにすればいいから。嫌なことははっきり言っていいのよ」
セレスは俯いたままだった。ティは今度は手を伸ばさなかった。触られるのが嫌なら手を出さないほうがいいだろう。少し離れてセレスが立ち上がるのを待った。ゆっくりと立ち上がって自分についてくるセレスを確認して、ティはケイナに目で合図を送った。
「手に余ることがあればいつでもご連絡を」
ドアーズがティに小さな声で言った。
「暴れたり騒いだりということはありませんから、そっとしておくのが一番ですよ」
ティはうなずいた。
リアがべったりと貼りついてセレスを見ていた理由が身に沁みた。この子の面倒を見るのはかなり大変かもしれない。自分で対処できるのだろうか。不安が押し寄せる。
だからセレスが後ろからいきなり自分の腕を掴んだときはぎょっとした。
「レンさん」
セレスはティを見上げて言った。すがりつくような目だった。ティは思わず前を歩くケイナの顔を見たが、振り向いた彼の表情からは何も読み取ることができなかった。
「ティでいいわ」
ティはこわばった笑みを浮かべてセレスを見た。
「どうしたの?」
「ごめんなさい。変なやつだって思わないで。自分でもどうしてなのか分からないんだ」
吸い込まれそうなほど、大きな緑色の目だった。
ティは目を細めた。セレスの声の調子がさっきと違うことに気づいたようだ。
「気にしなくていいのよ」
そう答えて、ゆっくりと歩き出しながらセレスに笑いかけた。
「なんにも心配しなくていいの。何か不安なことがあったら必ず助けてあげるから」
「あなたにどんなこと言ってもそれは違うから。それ、わたしじゃな……」
言いかけるセレスの体が何かにつまづいて前にぐらりと傾いた。ケイナが慌てて手を伸ばしてセレスの腕を掴んだ。
「ご、ごめ……」
そう言いながら顔をあげるセレスの顔がこわばった。彼女は自分の腕を掴むケイナの手を見て、そしてその視線をゆっくりとケイナに向けた。セレスの視線が自分の視線と合ったとき、ケイナの眉がひそめられた。セレスは目をケイナの耳に向けた。
「赤い…… ピアス……」
セレスは小さな声でつぶやいた。ティは何が起こっているのか分からず、ケイナとセレスを交互に見つめた。
ケイナは口を開きかけて、思い直すようにぎゅっと唇を噛んだ。何も言わずセレスから手を離した。
「大丈夫?」
ティはセレスに声をかけた。セレスははっとしたような顔でうなずいた。
「行きましょ」
そう促すとセレスは再び歩き始めた。

 オフィスに戻るプラニカの中でセレスは膝の上で両手を握り合わせ、体をこわばらせてずっと俯いていた。
ティは後部座席にいる彼女をちらりと見て、ケイナの横顔にも目を向けた。
来るときと違いケイナは一言も声を出さない。じっと彼を見つめていると、その視線に気づいてケイナが目を向いた。青い石のピアスの下で鎖が揺れた。
(何?)とその目が問い返してきたので、ティは少し笑みを浮かべてなんでもないとかぶりを振った。
ケイナからもセレスからも皮膚がぴりぴりするような緊張感を感じる。
自分はやっぱりとんでもない過ちをしてしまったのかもしれない。
でも、今さらもう後戻りはできない。
押し黙ったままオフィスのあるビルに着き、ティはセレスをカインのオフィスに連れて行った。
部屋の前でケイナが立ち止まったので、ティは彼を振り向いた。
「入らないの?」
そう尋ねると、ケイナは小さくうなずいた。不審に思ったがティはそのままセレスを連れてオフィスのドアを開けた。
カインはいつも通りデスクに向かっていた。ヨクの姿はないようだ。
気配に気づいて彼が顔をあげたとき、セレスの体がかすかにぴくりとした。
カインがモニターに一度視線を向けたあと、立ち上がってソファを指し示したので、ティはセレスを促した。しかしソファには近づいたものの、セレスは座ろうとはしなかった。
「座って?」
呆然としたように立ち尽くして自分を見つめるセレスをカインは見上げた。
「体調はどう?」
セレスは無言のままだ。カインはティに目を向けた。
「セレス? 座って?」
ティが声をかけたが、やはりセレスは動かなかった。カインは自分を見つめ続けるセレスに困惑した。
「どうしたの? 気分でも悪い?」
彼女の顔を覗きこんだ途端、彼女の両腕が伸びて肩に回った。しがみつくように抱きついた彼女の体重でカインはどっとソファに背をつけ、ティがびっくりして目を丸くした。
「やっと会えた……」
慈しむようにカインの肩に頬をすり寄せてセレスはつぶやいた。
「これがカイン……」
セーターの上からでも彼女の体の細さが伝わる。カインは思わずティを見たが、彼女はただ呆然としているばかりだ。
「セレス……」
カインは言った。
「大丈夫だから、ちょっと離れよう。な? 苦しいよ」
「カインと一緒にいたい」
セレスは言った。
「ずっと一緒にいたい……」
その声の異様さに一瞬総毛立った。
「セレス」
カインは思い切って彼女の腕を掴むと、強引に引き離した。膝をついたまま自分を見上げるセレスの顔をカインは見た。ガラスのような透明感を持った大きな目に吸い込まれそうになる。
「きみの部屋は用意してあるからね。必要なものがあればティに言いなさい。でも基本の生活は自分でするんだよ。もうできるね?」
カインはセレスの腕を掴んだまま、子供に言い聞かせるような口調で言った。
セレスはこくんとうなずいた。
「カインのそばにいていい?」
彼女は懇願するように尋ねたが、カインは首を振った。
「ぼくは仕事をしなくちゃならないから」
「じゃあ、いつなら一緒にいられるの?」
息を吐いてティを見上げた。彼女も困惑しているようだ。
「仕事が終わったらね」
カインは答えた。そしてすぐに付け加えた。
「でも、いつになるかは分からないよ」
セレスの目が自分の額から鼻、両目、頬から顎に向かって流れていくのをカインは感じた。またあの視線だ。記憶に刻み込むようにして眺める視線。
それでも彼女が納得したようなので、カインはそっと彼女の腕から手を離した。
「部屋に行って休みなさい」
「キスしていい?」
その言葉にカインとティは顔をこわばらせた。
「『ノマド』のキス…… してもいい?」
セレスはおずおずと言った。カインは少し安堵したが、かぶりを振った。
「ごめんよ、セレス。ここは『ノマド』じゃないし、ぼくらにはそういう習慣がないんだ」
リアのキスは許していたのに。
ティはカインの顔を見て思ったが、彼の気持ちも分かるような気がした。
何かを許せば彼女はどんどんエスカレートしていくかもしれない。
カインはきっとそれを危惧したのだろう。
(セレスが来ると…… あんたは嫌な思いをするかもしれない)
ケイナの言っていた意味がやっと分かった。
記憶のないセレスはカインに傾倒しているのだ。それを知っているからケイナはオフィスに入って来なかった。
「セレス…… お部屋に行きましょうか」
そう声をかけると、セレスは少し寂しそうな表情を浮かべたが、小さくうなずいて立ち上がった。