09-03 凍る青

 カインは水差しに水を汲んでサイドテーブルに置き、ブランの顔を覗きこんだ。
「ブラン、2時間ほどオフィスに行ってくる。また戻るから」
そう言うと、ブランはいやいやと首を振った。カインは身をかがめて彼女の髪を撫でてやった。
「本当に戻るよ。約束する」
「行っちゃだめ……」
懇願するような口調だった。カインはため息をついた。
「じゃあ、1時間」
しかし、ブランは首を振った。
「行っちゃだめなの……」
カインはしばらく思い悩みながら彼女の髪を撫でていたが、結局立ち上がった。
寝室を出る前にブランの小さな泣き声が聞こえたので可哀想だと思ったが、振り切るようにして部屋をあとにした。
オフィスに入ったカインに気づいてティがすぐにやってきた。『ホライズン』に送ったにしては早すぎると思ったのだろう。
「ブランは?」
「熱を出したみたいだ。ぼくの部屋で寝かせてる」
「ひとりで置いてきたの?」
ティは目を丸くした。
「リアとは連絡をとったんだけど、そのままでいいと言うし……」
ティのことだから必ず抗議すると思った。案の定彼女は口を開きかけたがデスクの通信音が鳴ったので彼女は不機嫌そうに口をつぐんだ。
「出社していたか。良かった」
ヨクだった。ティをちらりと見上げると、彼女は口を引き結んでカインを見ていた。
「ウォーター・ガイドとの契約はうまくいったよ。昼食会をする予定だったんだが先方の都合でキャンセルになった。で、別件が入ったんだ。サウスエンド医療グループの代表がきみに会いたいと言ってる。出られるか? 12時半からなんだが」
時計を見ると11時半だった。出られないと答えるわけにはいかないだろう。カインはうなずいた。
「分かりました」
「じゃあ、あと15分ほどしたらそっちに着くから、エントランスまで降りてきてくれるか?」
ヨクがモニターから消えたので、カインは上着をとりあげた。
その様子を見つめるティの視線とカインの目がぶつかった。
「ブランはどんな様子なの?」
「熱が出てる」
カインは上着に腕を通しながら答えた。
「どのくらいの熱?」
「計ってない」
「どうかしてるわ……」
ティはかぶりを振った。
「それで放っておいて仕事に行っちゃうの? リアさんを呼ぶべきよ」
「ティ……」
カインは眉をひそめて彼女を見た。
「リアがそのままにしておけと言ったんだ。彼女はこっちには帰らないよ」
『ノマド』の夢見のことを彼女にどう説明すればいいのかカインには分からなかった。何をどう言ってもティは納得しないだろう。
「サウスエンドにはアプローチしていてなかなかアポイントがとれなかったんだ。先方からのリアクションを断るわけにはいかないよ。それくらいきみにも分かるだろう」
カインは引き出しの奥からクルーレが用意してくれた銃を取り出すと、上着の内側につけたホルダーに入れた。ティは険しい目でそれを見ていた。
「そんな状態でやらなきゃならない仕事って、いったい何なの」
彼女はつぶやいた。カインはその顔をちらりと見て無言でデスクを離れた。
部屋から出ようとするカインの背にティは言いつのった。
「ブランのこと、心配じゃないの?」
カインは足をとめて少し振り返った。
「じゃあ、時間があるときでいいから、きみが時々見てやって」
「最低」
ティが思わず声をあげたが、カインは構わずオフィスを出た。

 エレベーターに乗り込んでひとりになった途端ため息が漏れた。
心配じゃないわけないだろ……
ブランには1時間といったのに、結局戻らないことになる。たぶん自分の子供ができたってこういう生活になるのかもしれない。ティが最後に自分に向けた「最低」という言葉が胸を突いた。
エントランスに着いて振り切るように足を踏み出したとき、カインは思わず立ち止まった。上階よりはるかに冷たい空気を感じたからだ。
周囲を見回した。いつもと変わらない人の群れとざわめきの波。空調だってちゃんと効いている。 ……いや、効いているはずだ。だのにどうしてこんなに空気が凍えているのだろう。まるでクラッシュアイスをばらまいたような冷たさだ。
訝しく思いながら歩き出し、自分で気づかないうちに懐の銃を確認していた。
『勝てないって。青い目のお兄ちゃんに』
ブランの言葉が思い出される。
まさか、とカインは心の中でつぶやいた。
こんな人ごみの中でいくらなんでも。でも、あいつは200mの距離からユージーを狙って撃った。
心臓の鼓動が速くなった。
200mではないにしても、吹き抜けの3階部分やこの広いエントランスの端からもしあいつが狙っていたら、自分には視線も殺気もきっとキャッチできないだろう。
強烈な緊張感の中でヨクの姿を見つけた。
「カイン、こっちだ」
ヨクはカインの姿を見つけて、いつもと変わらない表情で手をあげた。カインは早足で彼に近づくと、その腕を掴んだ。
「どうした?」
カインの表情に気づいたヨクは目を細めたが、カインはそれに構わず彼の腕を掴んだままエントランスを飛び出した。
「どうしたんだ?」
もう一度ヨクが尋ねたがカインは答えなかった。
凍えた空気が消えた。