08-02 ブラン

 ティは自分のアパートに戻ることをやめた。
着替えてオフィスに出たあと、自分の部屋から出勤してきたカインに朝のクルーレからの連絡を伝えた。
「分かった」
部屋で受けたとは言わなかったので彼もそれ以上何も言わず、いつものようにオフィスの自分のデスクの前に座った。座った途端にもうモニターを見つめている。
あまりにも普段と変わらない彼の様子にティは少しびっくりしながらオフィスをあとにした。
そりゃ、ここはオフィスだし、プライベートなことは持ち込んじゃいけないかもしれないけれど……。
あまりにも素っ気無い彼の態度に少し物足りなく思えたのは正直なところだった。
立ち止まって考え込んでいると廊下の向こうからヨクが歩いてくるのが目に入ったので、彼に駆け寄った。
「おはようございます」
「おはよう。昨日、ちゃんと帰れた? 荷物は全部運べた? ほんとに送らなくて大丈夫だったの?」
ヨクは帰る前に送るからと声をかけてくれていたが、ティはそれを断っていた。さすがに少し後ろめたさを感じて一瞬ヨクから目を逸らしかけ、慌てて彼の顔を見上げた。
「ええ、大丈夫です。それより、あの、ちょっと時間、いいですか?」
ヨクは不思議そうな顔をしたが、腕の時計を確かめてうなずいた。
「いいよ。ちょっとくらいなら」
ティは彼を自分のオフィスに招きいれた。
「どうしたの」
ヨクはティの表情を見て怪訝そうな顔をしている。ティはアシュアとケイナの無事が確認されたこと、クルーレから言われたことを手短に話した。
ヨクは首をかしげて黙って聞いていたが、聞き終わっても無言のままだった。
「朝、ひとり暴漢に襲われたってニュースは見たけどね……」
彼はつぶやいた。
「クルーレの部下だったとはな」
「カインさんには伝えないほうがいいだろうって」
「なんで?」
ティは困った。なんと言えばいいだろう。
「まだ曖昧なところがあって、リィにも影響があることなのかどうか分からないのと、あの…… たぶん、動揺するだろうからって……」
気乗りのしない口調で言うと、ヨクは首をかしげたまま不審そうに彼女の顔を見た。
「カインはそんなやわな男じゃないと思うけど?」
ティは俯いた。
「でも……」
「きみが狙われるかもしれないっていうことにだろ?」
ヨクがそう言ったので、ティは思わず顔をあげて彼の顔を見た。ヨクは少し呆れたような顔をしていた。
「クルーレもよく見ているもんだな」
「何をですか」
ティはヨクを睨んだ。
「カインにとってきみが特別な存在だってことに決まってるだろ」
「変なこと言わないでください」
ティは真っ赤になって言った。
「こういう大事なこと言ってるときに、どうしてそんな茶化すようなこと言うんですか。もう!」
ティは髪をゆらしてヨクに背を向けると自分のデスクに向かった。
「アパートにもう荷物を運んでしまったか?」
ヨクはそれを無視してティのデスクに手をつくと彼女の顔を覗きこむようにして尋ねた。
「いえ……」
ティはかぶりを振った。
「まだ…… 残ってます。」
「じゃあ、そのままいることにしたほうがいい。足らないものを取りに行くときはおれにひとこと言って、誰かに送迎してもらうんだ」
「ヨクは?」
「うん、おれもまたこっちに移動する。今までこっちにいた人間はまた戻ったほうがいいかもしれないな。おれが伝えるよ」
「カインさんにはなんていえばいいんでしょう」
「別に…… 適当でいいんじゃない?」
ヨクは笑った。
「戻ってみたけど、まだうろついてる記者がいるからとか」
ティは不安げにうなずいた。カインの目をそんなことでごまかせるのだろうか。
ヨクは両手をポケットに突っ込んでティを見下ろした。
「カインは馬鹿な男じゃないよ。黙っていたってそのうち気づく。クルーレだってそんなことは分かってる。ただ、こっちから言わなけりゃ気づくまでには時間がかかるだろう。ケイナのことやエアポートの一件や、いろいろと重なっているからな。手のうちようがあるなら、カインの手を煩わせることなく自分たちで動けってことだよ」
ティはうなずきながらも、心配そうに視線を泳がせた。
「クルーレさん、娘さんと息子さんにも護衛がついているようなことを仰っていたわ。『コリュボス』の母は大丈夫かしら」
ヨクは肩をすくめた。
「それを考えたら、そのうち社員全員がここで寝泊りしなくちゃならなくなる。ただね、普通は会社にダメージの大きい人間から狙われていくもんなんだよ」
ヨクの言葉にティはすっかり気が滅入ってしまった。ヨクはそんな彼女の肩に手を置いた。
「きみが危ない目に遭うと、会社にダメージが大きいってことだよ。いや、カインにかな?」
ティはいたずらっぽい視線を向けて言う彼を少し睨みつけた。
「どうしてそんなふうになんでも茶化してしまうんです? あんまりだわ」
ヨクは笑った。
「そうそう、その意気。今までだって乗り越えてきたんだ。もう少し伸びるくらいどうってことはない。頑張ろう」
彼はティの肩を数回軽く叩くとオフィスをあとにした。
ティはその後ろ姿を見送って息を吐いた。
単にマスコミから逃れるためだけにビル内に居を構えていたのに、まさか命の危険があるから帰ることができなくなるとは思わなかった。
いったい何が動いていて、誰がみんなの命を狙っているんだろう。
いやな予感がする。
不安まみれになってしまった頭をティは慌てて振った。
こんなことになっていると知って一番胸を痛めるのはカインだ。
しっかりしないといけない。
彼女は自分に言い聞かせた。