07-05 ナナ

「登ってきてる」
「移動しよう」
アシュアの言葉にナナも慌てて飛び起きた。
「ケイナ、あんた聞いてたの?」
ナナは手早く荷物をまとめながら小さな声でケイナに言った。
「ナナ」
ケイナは彼女の顔を見た。暗闇でもはっきり分かるほどケイナの目が鋭い。
「命を狙われてるのは、あんたじゃないの?」
ナナは言葉を無くした。
「あんたを『A・Jオフィス』に生きてかえすことくらい、『ゼロ・ダリ』にとって怖いことはないだろ。おれの治療をずっとしてきて」
ケイナは顔を背けた。
「スパイなんだったら、それくらい考えろよ」
「分かってるわよ」
ナナはむっとして答えた。先に立って歩こうとするナナの腕をケイナは掴んだ。
「アシュアとおれから離れるな」
「そんなこと……」
抗議しようとしたナナをケイナは真正面から見据えた。
「フォル・カートと約束した。『命がけで守る』と」
ナナは呆気にとられてケイナを見つめた。ケイナはナナの手をとった。
「アシュアと手を繋いで」
その言葉でアシュアがケイナの手からナナの手を受け取った。
「全部ひっぱりあげてやるからさ。」
アシュアはにっと笑った。

 20分ほど岩場を登った頃、ケイナは立ち止まって下の斜面に目を凝らした。
淡い光に照らされて赤い岩が点々と見えるが、ナナとアシュアには岩以外に何も見えない。
「さっきいた場所にはあと5分くらいで着くな……」
ケイナはつぶやいた。
「ケイナ、見えるのか?」
アシュアが尋ねると、ケイナはうなずいた。
「素人じゃない…… こんな岩場登ってくるやつ……」
ケイナの言葉にアシュアは下を見下ろした。やはり何も見えない。
「もう少し登ったら今度は下りになるわ」
ナナは言った。
「そりゃまずい。あっという間に追いつかれちまう」
アシュアはつぶやいた。ケイナは腰にさしていた銃を引き抜いた。
「ショックガンだしな……」
ケイナはそうつぶやくとアシュアに目を向けた。
「先に行って。近づいてから撃つ」
「分かった」
アシュアがぐいっとナナの手を引いたので、ナナは慌てた。
「ちょ、ちょっと待って、ケイナを残して先に行けないわ!」
ナナはアシュアの手をふりほどいた。
「いったい、何人いるのよ」
「10人」
ケイナは答えた。ナナは激しく首を振った。
「無理よ! ひとりでなんか!」
「大丈夫。50人相手にしたこともあるから」
ケイナは岩の上に身を横たえると、銃の安全装置を外した。
「ナナ」
アシュアがナナの手をとった。その手を払いのけようとしたので、彼女はバランスを崩して足を滑らせた。アシュアが慌てて支えたので滑り落ちることは免れたが、かちりと小さな音がして何かが落下していった。ナナがはっとした表情になった。
「なんか落としたか?」
アシュアが音がしたほうを見た。
「ううん、なんでもない」
ナナは答えた。
「早く行けよ。来るぞ」
ケイナの言葉にアシュアはナナの手をとった。ナナは観念して歩き始めた。

 10分ほど登ると、急に視界が開けた。
なだらかな斜面に延々と赤い岩が見える。斜面が途切れたところから少しの平地を挟んで、また登りの斜面が見えた。
「あの山を越えたらあとは平地だわ」
ナナは言った。
「とりあえず途中まで降りてケイナを待とう」
アシュアは斜面の先に見える平らな場所を指差して言った。
下りは登りの比ではなかった。手を引いてやればいいというものでもない。
アシュアは何度もナナの体を支えて高いところから降ろしてやった。
「あんたが体重軽くてよかったよ。もうちょっと重かったら、おれ、もたなかったかも」
目的の場所までたどり着くと、さすがにアシュアも腕を振って言った。
「ケイナは…… 大丈夫かしら……」
ナナは心配そうに上を見上げた。
「大丈夫だよ」
アシュアはこともなげに答えた。
「心配じゃないの?」
ナナは目を細めてアシュアを見た。
「こんなことよりもっとすごい状況、これまでいっぱいあったからな」
アシュアは腰をおろした。ナナはアシュアをちらりと見て、再びケイナが降りてくるはずの上を見上げた。
静かだった。何の物音も聞こえない。時折風が吹き抜けると刺すような冷たさを感じた。
ナナは上から目を離すと、何かを考え込むように宙を見つめた。
「アシュア」
しばらくしてナナは言った。アシュアは彼女に目を向けた。
「……どうして、わたしたちがここにいるって相手にはわかるんだろう」
アシュアはそれを聞いて小首をかしげた。
「副社長は歩きならレーダーにひっかからないって言っていた。レーダーにもひっかからないのに、彼らはどうしてわたしたちの居場所が分かるの?」
ナナがそうつぶやいたあと、ふたりは同時に持っていた荷物を引っ掻き回した。
中に入っていたものをひとつひとつ調べ、袋の縫い目まで調べた。着ているものも丹念に見た。ナナは髪を結わえていた紐までほどいて調べた。しかし何も見つからなかった。
「なんもないぞ……」
アシュアは言った。
「あとはケイナよ」
ナナは答えた。ほどいた黒髪が風にあおられて羽のように広がっている。
「ケイナは荷物を持ってないぞ?」
アシュアはそう答えてあっと口をあけた。
「神様……」
ナナは目をぎゅっとつぶった。
ケイナが戻って来るまでの時間が途方もなく長く感じられた。
本当に戻って来るのだろうか。
ナナは息を詰めて上を見つめていた。薄明かりに彼の姿を見つけたとき、ナナは思わず立ち上がっていた。
「ケイナ!」
ナナは焦ったように彼に近づくと、うっとうしそうに払いのけようとするケイナの手を遮って彼の顔を両手で包んだ。
「怪我、ない? 大丈夫なの?」
「ねえよ」
ケイナは眉をひそめてナナの手から逃れた。
「おい、服とかちょっと調べてみな」
アシュアが言うとケイナはかぶりを振った。
「さっき調べた。なんにもない」
やはり彼も同じことを考えていたらしい。
「じゃあ、目と腕と足…… どこかよ」
ナナは悲痛な声をあげた。彼女はケイナの右腕を両手で掴むと覆いの上から丹念に触っていった。
「目だったらアウトだわ。わたしは目を触れない……」
ナナは喘ぐように言って、同じようにケイナの左足を触っていった。そしてがっくりと肩を落とした。
「ナナ……」
アシュアが声をかけると、ナナはうずくまったままかぶりを振った。
「目だ…… どうしよう……」
ケイナは身をかがめると両手で顔を覆うナナを覗きこんだ。
「ナナ」
ナナが顔をあげると、ケイナは幽かに笑っていた。
「今さらまた目玉をえぐり出されるのなんかごめんだぜ?」
「そんなことできるわけないじゃない」
ナナはケイナを睨みつけた。
「そんなことをしたら、あなたは死んじゃうわ!」
「じゃ、答えは簡単だろ?」
ナナは目を細めた。
「さっさと前に進むってこと」
ケイナは立ち上がった。
「追ってきてるやつらはそんなたいした腕があるわけじゃない。100人来たってどうってことない」
ケイナはアシュアを見た。
「だよな?」
アシュアは肩をすくめた。
「はいはい、じゃ、行きますか」
ナナは目の前に差し出されるアシュアの手を見た。