06-08 脱出

 何気ないふうを装って、ただひとこと「いいよ」と言えば、ティはいつも通りの笑みを浮かべて嬉しそうに部屋を出ていくだろう。
いつ果たせるか分からないような約束を期待して。
それでまたいつも通りの日常が続く。
オフィスに下りてしまうと、ティと仕事以外の会話を交わすことはほとんどなくなる。
それは嫌だと思う自分を意識した。
じゃあ、「いいよ」でなければ何を言えばいいんだろう?
カインは視線を窓の外に目を向けた。外はもうちらちらする建物の光の粒しか見えない。
度量のない自分に嫌気がさした。仕事の打ち合わせもそんなに上手なわけじゃないけれど、こういうことになるともっと下手だ。
ティはカインが眉をひそめて宙を睨んだきり何も言わないので唇を噛んだ。
やはりこの時期に言うべきことではなかった、と思った。
カインはきっと怒ってしまったのだ。
一礼をして部屋を出て行こうとしたとき、険しい顔をしていたカインが急に立ち上がって自分のデスクに近づいていったので、ティはびっくりして彼の姿を目で追いかけた。
「ティ」
モニターの前に座るなりキィを叩きだしたカインが呼んだので、ティはびくりと身を震わせた。
「はい」
「身分証明を持ってる?」
「え? あ、はい」
カインが手を差し出したので、ティは慌ててポケットを探って小さなカードを入れるパスケースを出した。
「スペアなんですけど……」
「構わないよ」
デスクの対面からティの差し出すカードを受け取ると、カインはそれをコンピューターにセットした。10秒ほどしてカインは再びカードを取り出して彼女に返した。
「あの……」
ティは訝しげにカインを見た。カインは彼女をちらりと見て肩をすくめた。
「スペアだからね、明日にならないとチェックに回らないと思うけど、照合にパスしたらきみの遺伝子情報でこの部屋のロックが開くようになる。入るときにはキィホールに指でもなんでもきみの体の一部分を読み込ませればいいから」
ティの表情がさっとこわばった。
「体重は維持しておいて。瞳の色も変えちゃだめだ。カラーコンタクトは使用しないこと。それと……」
「カインさん!」
モニターを見つめながら一方的に話すカインを彼女は必死の思いで遮った。
「待ってください。何を言ってるの?」
カインは口をつぐむとモニターから視線を外し、ティに目を向けた。だが、その視線もすぐに逸らせてしまった。
「つまり、この部屋のオーナーとして、きみを同居人に登録したってこと。セキュリティチップは期限がついているし、発行がリィ・カンパニーだから何かと面倒だろ」
「同居……?」
ティは混乱した。
「どうしてそんなこと……」
「一緒に住もうって言ってるわけじゃないよ……」
カインはつぶやいた。
「きみにはきみの生活があるんだから、それを壊すつもりはないよ。でも……」
どう言えばいいんだろう。カインは困惑した。
しかたがないので、立ち上がってティに近づいた。ティは怯えたようにカインを見上げて少し後ずさった。
「うまく言えないよ」
カインはティを見下ろして言った。
「きみが、ここにはもう来ないっていうのは…… いやだなと思ったんだ」
言い方がおかしいかな。カインは小首をかしげた。
「ぼくはオフィス以外できみと一緒にいる時間が欲しいんだ。それって、無茶な要求?」
カインとの距離が近すぎる。ティは怖くなって目を伏せた。
「一応、個人的なお願いなんだけど」
(そんなこと分かってるわよ)
ティは心の中でつぶやいた。ボスとしての要求だったら平手打ちだ。
「どうしよう…… こんなつもりじゃなかったのに」
困惑したようにつぶやくティを見てカインは眉をひそめた。
「こんなつもりじゃなかったのなら、どういうつもりだったの?」
カインの言い方はひとつひとつが無骨だ。なんだか叱られているような気分になる。
「ぼくはまたずっときみに触れるのを我慢していかなきゃならないの? オフィスの中で、ボスと部下という関係を維持して、人目を気にして、ずっと?」
カインはそこで言葉を切って、視線を泳がせた。
もう、だめ。
そう思った。
もう何の言葉も思い浮かばない。
ため息をついたあと、腕を伸ばしてティを抱きしめた。信じられないほどの強い力にティはパニックに陥って思わず悲鳴をあげた。声にびっくりしてカインが手を緩めると、ティはあっという間に彼の腕からするりと抜け出してしまった。
ティは真っ赤な顔をして肩で息をつくと、カインに向かってこれ以上近づくなというように手を突き出した。
「カインさん、疲れていらっしゃいますよね?」
ティは必死になって言った。
「あの、わたし、秘書ですから」
カインの目が訝しそうに細められた。
「秘書だから、なに」
「ごめんなさい、わたしがいけなかったんだと思います、こんな時間に来ること自体が間違ってました、失礼だったわ、ほんとにごめんなさい」
「ティ」
カインは彼女の言葉を遮った。
「それって、迷惑だってこと? だったら登録も……」
「そうじゃないです!!」
ティは叫んだ。カインは再び眉をひそめてティを見下ろした。
「はっきり言って欲しいんだけど」
「どうしてそんな怒ったような物言いしかできないんです?」
ティは抗議した。
「別に怒ってないよ?」
カインは途方に暮れた。
「怒ってます! 顔も怖いわ!」
「そんなこと言われたって……」
カインの顔がさらに困惑した表情になった。
ティはため息をつくと額に手をあてた。
「もう…… どうしたらいいの」
泣きたい…… そう思ったら本当に涙が出た。
今までこんなに決心が必要なことがあっただろうかと思うくらいの決心をしてきたのに、どうしてこんな言い合いをしなければならないのだろう。
情けなかった。
こんなことなら、遠まわしなことを言わずに最初から好きですと言っていればよかった。
カインの腕が伸びてきたかと思うと、少し強い力で顔から手を引き離された。彼の温かい手のひらが自分の頬に押し付けられて涙をぬぐっていくのをティは感じた。
「どうして泣くの?」
カインは言った。
「そんなにぼくはきみを困らせてるの?」
「あっ!」
ティは思わず頬を押さえた。
「お化粧っ!」
泣いてぼろぼろになってしまったのではないだろうか。
マスカラ…… マスカラは確かこれくらいじゃ……。
ぐるぐると頭の中で考えていると、カインの顔が近づいて、彼の額が自分の額に押しつけられるのを感じた。
「お化粧なんかどうでもいいよ」
カインは言った。
「ティ、きみのことが好きだって、言ってもいいんだよな?」
顔が近くて、彼の表情は分からない。
くっついた額から彼の体温が伝わる。
頬に当てられたカインの手も温かい。
わたしたちって、なんて不器用なんだろう。
言葉で伝えられないんだったら、こういう方法だってあったじゃない。
ティは頭の隅で思った。
「ティ?」
今自分が立っているのかどうかすらティは分からなくなってきた。
彼の声が心地いい。今までこんなに近くでカインの声を聞いたことがあっただろうか。
倒れてしまうのではないかと思えて、ティは無意識にカインの腕にすがりついていた。
「うまく言えなくてごめんよ…… 毎日でなくていいから、ぼくのそばにいてくれる?」
ティは何も言うことができなかった。こめかみから耳元に探るような温かい吐息が触れる。
心地よさにそのまま気を失ってしまいそうだ。
この人の声を、吐息を、ぬくもりを全て自分のものにしたい。
私にある愛情は全部この人に注ぎたい……
こんなにも愛おしく思うなんて。
こんなに人を好きになるなんて。
カインの体温を感じながらティは思った。