06-07 脱出

 カインが会議から戻って来ると、ティがすぐに部屋に入ってきた。
ヨクはソファに沈み込んでぐったりしている。
「どうした?」
カインは彼女の顔を見て尋ねた。ティは少し不安げな表情を浮かべている。
「会議中にクルーレさんから連絡が入ったんです。終わったらすぐに連絡が欲しいと」
「分かった」
カインはそう答えながら、そういえばリアにも連絡を取らなければと思い出していた。
ティはカインのデスクの前から離れて出て行きかけたが、疲れきった様子のヨクを見て彼に声をかけた。
「コーヒー…… 淹れましょうか」
「ハーブティーかなんかにして。胃が痛い」
ヨクが答えたのでティは軽くうなずいてキッチンに向かった。
クルーレはすぐに画面に現れた。
「ずいぶんお疲れのご様子ですね」
クルーレはカインの顔を見て言った。
「5時間ぶっ続けだったものですから」
カインは笑みを浮かべようとしたができなかった。
「連絡をいただいたそうですが、何かあったんですか?」
「ケイナとアシュアが『ゼロ・ダリ』を抜け出したようです」
「抜け出した?」
『出た』ではなく、『抜け出した』? カインは目を細めた。
「朝になって、病室が空になっていることに所員が気づいた」
「どういうことですか」
「たぶんエストランドが『ゼロ・ダリ』を出ることを拒否したんでしょう。アシュアが話をしたのでは?」
カインは視線を泳がせた。自分はアシュアにエストランドと話をするように指示しただろうか。
「すみません、クルーレさん。ぼくの判断ミスがあったかもしれない」
「いや、そこが問題じゃない。『A・Jオフィス』から派遣されていた人間が同行しているようでね ……と、いうことは、ケイナは『ゼロ・ダリ』から出なければならないと判断されたからだと思う。エストランドが焦って妙な行動を起こしたんでしょう」
クルーレの言葉にカインは緊張した。
「それって……」
クルーレはうなずいた。
「まだ同行している人間から『A・Jオフィス』に連絡がないのではっきりしたことは分かりませんが、強引にケイナを身動きとれないようにしようとした可能性は高いと思います」
身動きとれないように……? カインは口を引き結んだ。
気がつくとヨクとティがそばに立っていた。話の様子がおかしいことに気づいたのだろう。
「通信機が壊れているようで繋がりません。向こうからの連絡が入るまで待つしかないでしょう。『A・Jオフィス』がふたりを保護すると思います。連絡があればまたそちらにもお知らせしますので」
「……お願いします」
クルーレが画面から消えたあと、カインは大きく息を吐いて椅子にもたれかかった。
「『ゼロ・ダリ』を出たのか?」
ヨクが言った。
「で、今どこに?」
カインはかぶりを振った。
「やれやれ……」
ヨクもかぶりを振るとソファに戻っていった。
カインはリアに連絡をとろうとして、アシュアの無事が確認されてからのほうがいいと思い直し、その手を止めた。
しばらく仕事に没頭し、ふと気がついて顔をあげたときには部屋の中には誰もいなかった。
ヨクとティがいつ出ていったのかも覚えていなかった。

 仕事の手を止めて顔をあげたときは午後7時を回っていただろうか。
カインはやっとデスクから立ち上がり、軽い夕食をとってシャワーを浴びた。
下のオフィスに戻るまでにやっておかなければならない仕事がまだ少し残っていたので、シャワーを浴びてから再びデスクに向かうつもりだった。
しかし、次に気がついたのは自分を呼ぶ声だった。
「カインさん、こんなところで眠っちゃだめです」
カインははっとして目を開けた。知らないうちにソファの上でうたたねをしていたようだ。
顔をあげるとティが自分の顔を覗きこんでいた。
「風邪、ひきますよ」
彼女は言った。
「今、何時?」
風邪をひくことはないんだけど、と思いながら、カインは身を起こした。
「10時です。もうドアはロックされていると思ったのに開いたからびっくりしました」
ティはカインが放り出していたタオルを拾い上げて椅子の背にかけた。
「知らないうちに眠ってんだ……」
髪をかきあげてため息まじりにそうつぶやいて、ふと彼女の顔を見た。
「どうした? こんな時間に。何か問題でも?」
「急ぎで、どうしても今夜中にという報告書があがってきたので…… だめもとでうかがわせていただきました。デスクの上に置いておきましたので…… すみません」
カインはかすかに息を吐くと、目を逸らせてうなずいた。これでまた仕事が増えた。
「あの……」
ティが再びためらうような感じで口を開いたので、カインは彼女に目を向けた。
「なに?」
ティはカインの視線から逃れるように目を伏せると、かすかに顔を俯けた。
「あの…… わたし、今夜から自分のアパートに戻ります。ヨクもさっき帰りました」
カインは不思議そうな顔で彼女の顔を見つめた。
そうか…… 良くも悪くもエアポートの事件でマスコミの目はそちらに向いてしまった。
ふたりがアパートに戻っても大丈夫になったということだ。
「明日からカインさんも下のオフィスに戻るし、わたしもこちらの部屋に入ることはもうないと思いますので……」
ティはそこで言い澱み、肩をすくめた。
「セキュリティチップを帰る前に返却します。ヨクも返してしまったと思います」
「そう」
カインは生返事をして彼女から目を逸らせた。頭の中は徐々に仕事のほうに傾きつつあった。
ティはそんなカインを見つめながらタオルをかけた椅子の背に両手を置いた。しばらく迷うような表情をしていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「あの…… ケイナとアシュアが無事に帰ってきたら、今度はわたしの家でお祝いをしませんか」
「え?」
カインは思わず彼女の顔を見た。ティは少し顔を傾けて部屋を見渡した。
「ここみたいに広くはないけど…… 6人くらい大丈夫。ケイナとアシュアと社長とヨクと。セレスも動けるようなら一緒に。次はシチュー以外のものが作れるようにしておきます」
かなり決心をして口に出したのだろう。言い終わるとティは大袈裟なほど肩を下げてふう、と息を吐いた。オフホワイトのセーターの肩で栗色の髪が揺れて、ふわりと甘い香りがカインのいるところまで漂ってきた。
「帰る前にそれだけ言っておこうかなと思って。オフィスだとなかなかこういう話もできないでしょう? だから今のうちに約束をしようと思ったんです」
彼女はカインの顔をうかがうように見た。
「こんなときに不謹慎なことを言ってすみません。気を悪くしないでくださいね」
カインはティの言葉を聞きながらソファに身を沈みこませ、小さくため息をついた。
ええと。
こういうときはなんて返事をすればいいんだろう?
ティが自分のアパートに戻る?
いいじゃないか。
彼女には彼女のアパートがある。
前の通りになる。何がいけない?
お祝い? そうだな、それも別にいいと思う。
でも、何か違うような……