05-04 Go home

 初めて歩行訓練に入ったとき、ケイナは立ち上がって顔をしかめた。目覚めてから初めて見る彼の生の表情だった。
「痛いですか?」
ナナが言うと、彼はかぶりを振った。
ナナともうひとりの医師が見守る中、彼は黙々と歩行訓練をこなした。
目覚めてから12日がたっていた。
体つきは相変わらず痩せこけたままだったが、日に日に体力を取り戻していることはアシュアにも分かった。
それでも自分のものでない足を動かしていくこと、7年間動いていなかった足を動かすことはかなり辛いらしく、声こそ発しなかったものの、何度も転びながらケイナは汗びっしょりになった。喘ぎながら彼の鼻の頭に伝う汗をアシュアは見た。
体を支えるバーなしで歩くのにはさらに5日かかった。
歩行訓練を始めて10日後には、ケイナは十分に歩けるようになっていた。
「信じられないわ…。」
ナナはつぶやいた。恐ろしさを感じているような表情だった。それはケイナの治療に携わっていた誰もが感じたことだっただろう。みな、彼を見るときに畏怖の表情を浮かべた。
一ヶ月を過ぎた頃、彼は日常生活を何不自由なくこなせていた。
アシュアが心配だったのは、彼がそれでも一言も声を出さないことだった。
笑みを見せることもない。
短く刈られていた髪も伸びた。痩せた体も少し体重が戻った。でも声を出さない。
「ケイナ」
部屋に誰もいないときアシュアは彼に声をかけた。椅子に座って指を動かす訓練をしていたケイナは顔を振り向けた。やっぱりこちらの声は聞こえているのだ。でも、ガードされている目が見えないので本当にこちらを見たのかどうかは分からない。
「おまえ…… なんでしゃべらないの?」
ケイナは何も言わず顔を逸らせた。
「声…… 出せないわけじゃないだろ?」
やはり彼は何も言わなかった。アシュアは諦めて部屋を出て行こうとした。
そろそろカインに連絡を入れる時間だ。
そのとき、その背にコツンと当たったものがあった。なんだろうと振り向いた時、ケイナが訓練に使っていた筒が下に落ちていた。なんでこんなものが、と思って身をかがめようとした途端、左頬に衝撃を感じてひっくり返った。びっくりして顔をあげると、右手を握って顔の近くまで持ち上げているケイナの姿があった。
「ああ?」
アシュアは呆然とした。殴った? 右手で? だって…… だって、そっちは義手だろ?
目を見開いたまま自分を見上げるアシュアを、ケイナは黒いガラス越しに見下ろした。やがてその口元にかすかな笑みが浮かんだ。
ケイナが左手をアシュアに差し出したので、アシュアはその手を怪訝そうに見つめていたが、それが自分を立たせようと差し出された手だと察して再び呆然とした。
無理だ、そんなの…… そんな細い腕で……
アシュアは思わずかぶりを振った。
「本気かよ、おまえ……」
ケイナを見上げたが、彼は無言でずっと手を差し出している。
アシュアは思い切って彼の手を握ってみた。力強く引っ張られる。体重を預けたにも関わらず、ケイナはいとも簡単にアシュアを立ち上がらせた。
「いったいいつの間に……」
彼の手を掴んだままつぶやくアシュアの顔をケイナは無言で見上げた。
そうか。ケイナの身長は7年前で止まったままだったんだな…… ふとそんなことを考えた。
再びケイナの口元に笑みが浮かんだかと思うと、アシュアは小さく悲鳴をあげた。
ケイナの手が思い切り強く自分の手を握り締めたのだ。それも生半可な力ではない。
「やっ…… やめっ…… ケイナっ!」
アシュアが手を振りほどこうと身をよじって喚き、ようやく彼は手を離した。
「なに考えてんだ……」
アシュアは体をくの字に折り、ずきずきする手をさすってケイナを睨みつけた。そしてぞくりとした。黒いガラス越しに見えないはずの彼の視線を感じたからだ。
「アシュア」
ケイナは言った。アシュアは凍りついた。
「地球に帰ろう」
それは7年前に聞いた彼の声そのままだった。