01-8 予感

 広い駐車場から『ホライズン』の建物の中に入るとひんやりと冷たい空気が頬に触れた。
常に18度に設定されている空調の空気はカインには少し肌寒いような気がした。
何人かの職員の会釈を受けながら白い壁に黒い床の長い廊下を進むと初老の男が待っていた。薄くなった髪と鼻の下と顎にたくわえた髭がうっすらと白い。
「お待ちしていました」
男は軽く笑みを浮かべるとカインに手を差し出した。
 彼の名はドアーズだ。セレスの治療にあたる第一責任者。
数回しか顔を合わせたことはないがその風貌が個性的だったのでよく覚えている。
カインは彼の手を握り返しながら彼の顎の髭に視線を向けて、また伸びたのかな、とちらりと思った。
彼の顎鬚の長さはもう胸に達するまでになっていた。前はまだ首元あたりだと思ったけれど。
「セレスはどんな感じなんですか?」
ドアーズに促されて歩きだしながらカインは尋ねた。アシュアが少し遅れてついてくる。
「体温が自発的に上昇してきています。脳波にも覚醒に向けての波長がみられます。ただ、まだスパンが短くてすぐに眠りのほうに落ちてしまう。それでももうだいぶん近いと思えます」
ドアーズは落ち着いた口調で説明した。
「本当に少しずつですが……覚醒の波長のときに、ティースプーンに半分ほど、胃に直接流動食を流し込んでみています。自力で消化吸収できるということが、目覚めてからの復帰に役立ちますしね」
ひとつのドアの前で立ち止まるとドアーズはカインとアシュアを振り返った。
「前にお会いしてから1年くらいになりますね」
彼の言葉にふたりは顔を見合わせてからうなずいた。
「ええ、たぶんそれくらいになると思いますが」
カインは答えた。
「ご承知のことと思いますが、覚醒時には彼女は『女性』です。彼女の場合遺伝子を女性として治療をしたほうが効果があがりますので、そのための治療も行ってきました」
ドアーズがセレスのことを「彼女」と言うことに何となく違和感を覚えながらふたりは彼を見つめ
た。
「この1年で彼女は飛躍的に女性になっています。たぶんもう前の面影はありません。彼女が目覚めたときも『女性』として対応してください」
「それは分かっていますが……」
自分とアシュアを交互に見つめるドアーズの顔を見てカインは言った。
「セレスは目覚めたときにどれくらい以前の記憶が残っているものなんですか」
「それは目覚めてからでないと分かりません」
ドアーズはきっぱりと答えた。
「しかし、脳に損傷は見られませんから、案外ほとんど覚えているかもしれません。まあ、70~80%ほどは」
カインは視線を泳がせた。80%の記憶。
その中に自分は男だったという記憶があったら? セレスの混乱はいかほどになるだろう。
「大丈夫、そういうことを全部見越してこっちでも受け入れ体制を考えてる。心配すんな」
アシュアがカインの様子を見て言った。それを聞いてカインはうなずいた。
そう、分かっていたはずだった。ケイナの肉体的な損傷に比べてセレスはダメージが少ない。その分、以前の記憶を保ったまま覚醒するであろうことは覚悟していた。
「では、よろしいですか?」
ドアーズは少し笑みを浮かべるとドアを開けるために壁についた小さな穴に手をかざした。音もなく左右に開くドアの向こうからさらにひんやりとした空気とともに、かすかに甘い芳香が漂ってきた。
カインはふとティのことを再び思い出した。
ドアーズに促されて薄暗い部屋に足を踏み入れ、さらに奥に進むと計器類の点滅する明かりが見えた。数人の人影が見える。ふたりの姿を見て会釈をする者もいた。
大小さまざまな光の向こうにカインとアシュアは薄く白いベールのような布が天井からテントのように下げられているのを見た。
1年前も確かそうだった。テントの中はさらに気温が低い。セレスはその中で無数のチューブに繋がれていた。ほとんど肉体が見えない状態であったように思う。アシュアが後ろで小さくくしゃみをした。
「ちょっと寒いでしょうな。それでも1年前に比べると5度ほど違いますよ」
ドアーズが振り返って少し笑いながら言った。そしてさらに部屋の奥にふたりを促した。
計器類の明かりを通り越して白いテントの中を見たふたりはそのまま目を丸くして立ち止まってしまった。
アシュアは中に横たわるセレスの姿を見て、カインはその姿にデジャヴを感じて。
「セレス……」
アシュアのかすれた声が聞こえた。
テントの中のその姿は、カインがかつて見たことのある姿だった。
緑色の長い髪。透き通ってしまいそうな白い肌。
『グリーン・アイズ』
7年前、氷の下の部屋に閉じ込められていた少女、『グリーン・アイズ・ケイナ』そのままだった。