32-1 エピローグ

 カインは顔をあげて溜め息をつくと、肩のこわばりを感じて首を回した。
何枚の書類をチェックしただろう。毎日毎日、山のような報告書と企画書、計画書…… モニターを見つめているだけでもかなり疲れる。
部屋に誰かが入って来た気配を感じてそちらに目を向けた。
「タイミングがいいね」
カインは笑みを浮かべた。その顔を見て、秘書のティ・レンも笑みを返した。
彼女はトウの秘書だったクーシェのあとに入った、この春に『スクエア』を修了したばかりのまだ若い女性だ。カインとは歳が2つしか違わない。
「これを各部署に渡しておいてください」
カインはデスクの上の書類の束を持ち上げた。
「分かりました。交換しましょう」
ティはくすくす笑いながら、持っていた紙の束をどさりとデスクの上に置いた。カインはそれを見てうんざりした。
「ヨクがあとで見ると言ってます。社長はもうお出にならないと……」
「うん、任せるよ。どこかでキリをつけないと一生オフィスから出られないような気がする」
カインは苦笑して立ち上がった。
ヨクはカインが社長に就任してからカインの補佐として仕事を手伝ってくれた。
いや、正しくは「教えてくれた」と言ったほうがいいかもしれない。
トウとさほど年齢の違わない東洋系の男性で、笑うと顔中がくしゃくしゃになる。彼は曾祖父の時代から4代にわたってリィ・カンパニー従事してきた数少ないリィ・カンパニーの重役の血筋で、カンパニーの仕事を熟知しているといってもよかった。
「ヨクの出ている会議の様子はどう?」
カインはスーツの上着をとりあげながらティに尋ねた。
着慣れないスーツも、やっと最近馴染むようになってきた。
東洋系の血はどうしても年齢よりは幼く見える。やっと20歳になったばかりのカインにとって、企業のトップを担うことは周囲から信用を得ることすらが大変だった。ヨクをはじめとするバックアップの重役たちがいなければとてもやってこれなかっただろう。
「予定通り進んでいるみたいです。ただ、気になることがあるので、社長にはお帰りになられたら時間をとっていただきたい旨、伝えるようにと言われました」
「わかった」
カインは髪をかきあげると、足早にクローゼットに近づいてバッグをとりあげた。
「お戻りは5日後でよろしいですか?」
ティは言った。カインはうなずいた。
「もしかしたら数日伸びるかもしれないけれど…… そのときには連絡します」
「お気をつけて」
ティは笑みを浮かべて部屋を出ていくべく背を向けかけて、再び口を開こうとするカインの表情に気づいて向き直った。かすかに小首をかしげるティを見て、カインは一瞬ためらったが、口を開いた。
「母から…… 連絡はない?」
ティの視線がすまなさそうに伏せられた。
「いえ……」
「そう……」
カインは彼女から目をそらせてうなずいた。
一日一度は聞いてしまう。<母から連絡はない?>
 半年間、すさまじいスケジュールでカートとリィの事業分離を片付け、従業員の線引きとカインへの引き継ぎ、カインのバックアップをする重役数名の指名をしたあと、トウは自分の預金で設立した小さな幼児療養施設の経営にシフトした。
一年後、経営が軌道に乗ったところでトウは急に経営権を他者に譲り、行方知れずになった。
彼女がアライドに発ったらしいことだけはつかめたが、その後の足取りは全く分からない。
トウがいきなり子供の施設の運営を始めた真意は誰にも分からなかった。
ただ、カインは母が長年解いた姿を人に見せたことのなかった長い髪をぷっつりと肩まで切り、質素な髪止めでそれをたばねて病気治療中の子供たちの病室を渡り歩く姿を何度か見た。
そのときのトウの表情には見慣れた張り詰めた空気はなかった。
療養中の子供に向けられる笑みは以前のトウからは信じられないほど愛情溢れた表情だった。
彼女が一番やりたかったのはこのことだったのだろうか。
そしてその思いが叶ったあとは、もう自分は必要ないと思ったのだろうか……。
トウは失踪する直前にカインに言った。
「わたしは今でもトイ・チャイルド・プロジェクトは止めるべきではなかったと思っているわ。でも、もうどうしようもない。時間は待ってはくれない」
カインは目を細めてトウの顔を見た。<時間は待ってくれない>? どういうことだ。
カインの怪訝な顔を見て、トウは笑った。
「時間は待ってはくれない。誰にでも平等に」
荒れきった手を伸ばすと、トウはカインの額に垂れかかった前髪をかきあげてやった。
「大丈夫。あんたはちゃんと経営者としてやっていけるわよ。わたしとボルドーとお祖父様の血を引いているんだから」
問い返す言葉も見つからないまま、その数日後、トウは姿を消した。
その後はどんなに手を尽くしても彼女の居場所は分からなかった。

 レジー・カートは一年前に他界した。そのときに何ヶ月ぶりかでユージーに会った。
あの地震の日のことは触れまいと思っていたが、先に口を開いたのはユージーだった。
「『人の島』の捜索を始めてる」
彼は言った。
「地表の氷が不安定で足場を確保するだけでもあと数カ月かかると思う。見つけるのには半年はかかるな……」
「生命反応はなかった……」
カインがつぶやくと、ユージーはうなずいたまま何も言わなかった。
ユージーは諦めきれていない。
その気持ちはカインも同じだった。だが、もうあれからずいぶんたつ。
生きている可能性は低い。
あのあとカインは『人の島』の上空を飛んでいた。
氷が積み重なり、荒れた地表は地震のすさまじさを物語っていた。
もちろん着陸はできない。いくら強度のあるシェルターになっているとしても、ケイナたちのいた部屋が氷の重みで押しつぶされなかったのは奇跡としか言いようがなかった。
この地を掘り返す時間と労力が供出できるだけの体力はすでにリィにはなかった。だから、カートの側で動いてくれるのは有り難いが、凍ってしまっていると思えるケイナとセレスの姿を見ることは不安だった。
何度も衛星経由で確かめた。生命反応はない。ふたりは死んでしまったのだ。
一昨日、いきなりユージーから連絡が来た。
箱が見つかった。
「体が空くんならこっちに来て欲しい ……いや、無理にでも来てもらいたい」
ユージーの口調に躊躇なくカインは『人の島』に行く決心をつけた。