「おーい……」
カインは目を開けて自分の顔を覗き込む男に気づき、その途端にがばっと跳ね起きた。
男の額と自分の額がぶつかった。
「いっ…… てぇ……」
額を押さえてうずくまる男をカインは呆然として見つめた。
「アシュア……」
「やあ。死んでるのかと思ったよ……」
額を押さえてアシュアは言った。
なんでアシュアがいる? ここはどこだ? 見回して余計に混乱した。
何にもない。真っ白で何にもない。霧に包まれてでもいるような感じだ。
「アシュア、こんなところで何やってんだ? リアはどうした」
カインが言うとそれを聞いたアシュアの顔が困ったような表情になった。
「アシュアって…… おれの名前なの?」
「え……」
カインは目を細めてアシュアを見た。しかし冗談を言っているわけではなさそうだ。
「なーんも分からないんだよね。あんた、なんでおれのこと知ってんの? 誰?」
なんだよこれは…… どこに入り込んだんだ…… あの子の夢か? アシュアの夢か?
それともただの自分の夢……?
「何にも思い出せないのか?」
カインはアシュアの顔を覗き込んだ。アシュアは頭を掻いた。
「うーん…… さっき会ったやつは、もうすぐ思い出すって言ってたんだけど…… なんか、聞かなくちゃならないものがあるとかどうとか……」
聞かなきゃならないもの? なんだそれは。
「あんたはなんでおれを知ってるわけ?」
「なんでって……」
カインは戸惑いながらアシュアの顔を見た。
「何年も一緒にいて忘れるはずないだろ……」
「何年も一緒に?」
アシュアはびっくりしたような顔になった。
「おまえ、どうしたんだよ。リアは?ケイナたちはどうしたんだ」
「ケイナ?」
首をかしげるアシュアを見ているうちにカインは妙にイライラしてきた。
「ケイナだよ! セレスもいた! ぼくの名前はカインだ! カイン・リィ!!」
声を荒げるカインを見てもアシュアは弱り切った表情を浮かべるだけだ。
カインはため息をついて額を押さえた。アシュアの石頭。まだズキズキする。
早くここから抜け出さないと。夢なら覚めればいい。どうやったら覚めるんだ。
「おまえの顔見てると、なんとなく懐かしいって感じはするんだけど……」
ぽつりとつぶやくアシュアをカインはじろりと見た。
「ぼくの顔なんかで懐かしがっててどうするんだ。懐かしがってるヒマなんかないだろう。きみは守らなきゃいけないことがあっただろう!」
「え?」
アシュアの目がびっくりしたように見開かれた。
「守らなきゃならないこと?」
「何、能天気なこと言ってんだ。しっかりしろよ。リアはどうしたんだ! セレスとケイナは!」
そう言ってカインは目をそらせてかぶりを振った。
「ケイナとセレスはもう『人の島』に行ってる……」
そしてはっとした。
「きみは一緒に行っていないのか?」
カインはアシュアの顔を見た。
「アシュア…… どうしたんだ…… 今、きみはどうなってるんだ……」
不安が押し寄せる。アシュア、きみはもしかして……
「きみは、今、誰と一緒にいるんだ……?」
「誰と?」
アシュアはつぶやいた。
「誰と……?」
視線を泳がせていたアシュアの目が急に輝いた。
「ああ、そうか」
ぽんと手を叩き、そう言った途端アシュアは身を翻して走り出した。
「ち、ちょっと……!」
カインは慌てて手を伸ばしたが、あっという間にアシュアはいなくなってしまった。
取り残されたカインは途方に暮れた。
どうする。どうやってここから抜け出す。弱り切って顔を巡らせたとき、小さな黒い点を見た。
あれはなんだろう。人の影?
足を踏み出して近づいていった。
少しずつ黒い点が大きくなり、形を成していく。
妙に体が震えた。見てはいけないんじゃないだろうか。そんな気がする。
でも、どうして? どうして見ちゃいけない?
この情景、どこかで見たことがある。
どこで?
心は近づくことを拒否しているのに足が言うことをきかない。
そしてカインは白い地面に横たわる見覚えのある姿を見下ろしていた。
体ががくがくと震える。震えるのに、頭の中は妙に冷めている。
この光景は、もうだいぶん前に見ていたのかもしれない。
心のどこかで分かっていたのかもしれない。
トリは封じ込めてしまったけれど、いつかは思い出せるようにしていたのかもしれない。
そして今は…… 思い出す時期なのか?
どうしてこんなに静かな寝顔なのだろう。
決して放すまいと堅くお互いにしがみつく手。
どうしてこんなに美しいのだろう。
どうしてこんなに幸せそうな笑みを浮かべている?
「なあ、トリ」
声がしたので顔をあげた。アシュアが自分の横で同じように足元を見下ろしていた。
「せっかく助けてもらったんだけど、おれの命って、いっぺん無くなったモンだと思うんだよね」
アシュアは頭を掻いた。
「おれは別にいいからさ、こいつらにあげられないわけ?」
– 命はひとつしかないよ –
トリの声がした。
– きみは誰を助けるの? –
アシュアは無言で足元を見つめた。
「そうかぁ……」
アシュアはぽつりとつぶやき、顔を歪めた。
「おれの命ってひとつしかねぇんだ……」
そう言ってアシュアは泣き出した。
やめろよ、アシュア……
カインは自分の心臓のどくどくという音が自分の耳にも響くのを感じていた。
アシュア、やめろ…… 命の秤なんて、誰も持ってない……
– 大丈夫だよ。カイン・リィ –
姿の見えないトリの声がした。
– ラストシーンは未来に続く。彼らは時間を取り戻すだろう –
再び飛び起きていた。
「所長! 目を覚まされました!」
誰かが自分のそばで大声を張り上げた。
見回すと元の喧噪に包まれた部屋の中だった。
カインは部屋の隅のソファに横たえられていたことを知った。
「ご気分は」
不機嫌そうな顔で言うバッカードをカインはちらりと見たきり目を伏せた。
「血圧が下がってますよ。貧血と低血糖症。死にますよ」
彼がそう言って差し出したものを見て目を疑った。チョコレートだ。皿にのった数個の茶色い粒を見て思わずバッカードの顔を見上げると、彼は口を歪めて肩をすくめた。
「知りませんか。てっとり早く低血糖を取るにはこいつが一番。もっとも、ちゃんと注射させてもらいましたから、もう大丈夫だと思いますがね」
額に手をやると、小さなコブができていた。倒れたときに頭をぶつけたのかもしれない。アシュアの石頭ではなかった……
「どのくらい気を失ってたんですか……」
「さあ。一時間くらいかな」
バッカードは答えた。
「さっき、ミズ・リィにも報告しました。こっちには来ないそうですよ」
カインは黙ってバッカードの顔を見つめた。
「都合のいいときには口出しして、トラブルあると知らん顔。冗談じゃないね」
バッカードはどこに怒りをぶつけていいか分からないといったふうに、こぶしを振り上げておろした。
「冗談じゃない」
「状況は」
カインは立ち上がった。
「変わりません。施設の様子は全く分からない。ただ、空調が停止しましたから、途方もない冷気が中に侵入しているでしょうね。全部が凍るのは時間の問題だ」
「グリーン・アイズ・ケイナは?」
バッカードは首を振った。
「彼女の体内に埋められているチップだけは別システムなんです。覚醒に近づいてますよ。確実に」
彼女の体内のチップは別システム…… そうか、彼女の体にウィルスが送られたわけじゃない。この部屋以外のコンピューターは復帰してるんだ……
「彼女と一度話をしましたよね。あれは使えないんですか?」
カインの言葉にバッカードは厳しい顔をした。
「あれは彼女の頭に埋め込んだチップで会話してます。だけど、今そんなことをしたら、彼女は発狂するかもしれませんよ」
「中に入った彼らを助けないと。彼女に呼びかけて説得する」
バッカードはそれを聞いて呆れた顔をした。
「説得なんてできるわけがないでしょう。彼女の意志じゃない。遺伝子の意志なんですよ」
カインはバッカードの顔をしばらく見つめたあと、 彼がまだ手に持ったままだった皿からチョコレートをひとつつまみあげ口に放り込んだ。
「もう、倒れないから、繋いでください」
―― ラストシーンは未来に続く。彼らは時間を取り戻すだろう ――
トリ。いつもいつも予言じみたことを言ってないで、少しはまともに教えてくれないか。
カインは口を引き結んで画面の前に立った。