29-2 呼ぶ声

 機体がガクンと揺れたので、セレスはやっとそれで目を覚ました。
顔をあげるとすべての窓にはフィルターがおりていて、手元の光と計器類の明かりしかない状態だった。大気圏に入ったときに防護で前面ウィンドウは閉じられてしまったのだ。
ケイナは座席に身を沈めたまま口を引き結んで頬杖をつき長い足を組んで前を見つめている。
「もう、着くの?」
セレスの声にケイナはちらりと目をこちらに向けた。
「着いたんだよ」
彼は答えた。
「え?」
慌てて身を起こした。夢も見ない深い眠りでまだ頭の芯がぼうっとしていた。
「どこ?……」
「すっげえ、寒いところ。北緯72度を表示してる」
「え?それって……」
セレスは仰天した。
「北極圏……?」
ケイナは何も言わずかすかにため息をついた。
フロントのフィルターが下からあがりだしたのでセレスは思わず立ち上がってガラスの向こうを覗き込んだ。真っ白で何も見えない。
「雪ー? 違う、氷だ! どうしよう。降りてもおれたち凍えちゃうよ」
不安げに言うセレスにケイナは座席の後ろを顎でしゃくった。
「季節は夏だ。とりあえず用意はしてあった」
振り向いてみると、軍仕様のジャケットが見えた。堅そうな大きな手袋も見える。とはいえ北極圏に降りるようなしろものではない。
北緯72度、西経40分あたりはおそらく一年中氷に覆われていて、夏であれば10度か15度程度だろう。防菌マスクの用意がなかったからドームのないところで歩ける場所ということをケイナは考えていたが、まさか北極圏とは思わなかった。もし教えてもらっていた連絡先にコンタクトしていなければいずれ凍死だ。ケイナはそう思ってちらりとセレスを見た。
「着ろ。おりるぞ」
フロントに映った小さな機影を見つけたケイナは立ち上がってジャケットをとりあげるとセレスに放った。きっとA.Jオフィスからの機だ。フォル・カートは自分の言ったことをちゃんとやってくれるんだろうか……
セレスは戸惑ったように投げられたジャケットを着た。大きなジャケットはセレスの体にはまるでコート状態だ。
個人機のドアを開けたとき、さすがにふたりとも震えた。15度なんて生易しい気温ではない。きっと体感は0度以下だ。季節が夏でなければあっという間に凍死するかもしれない。
見渡す限り白い世界が広がっていた。恐ろしく巨大な氷山の影も見える。光が反射して目が痛い。紫外線が強すぎる。30分もいたら日焼けならぬ雪焼け状態になりそうだった。
「ここって、何? 海の上かな」
セレスは地面に足をおろし、自分たちが『ライン』で履いていた鋲つきの靴を履いていた事に感謝しながらつぶやいた。そうでなければとても歩くこともできないだろう。
ケイナは何も言わず空に目を向けた。それに気づいたセレスは彼の視線を追い、そして機影を見つけた。
「なに?」
ケイナの顔を見上げたが、やはり彼は何も言わなかった。
小さいと思っていた機影は近づくにつれ、とても小さいとは言いがたいほど大きな機体であることがわかった。中規模の運輸船並みだ。個人艇が5機はおさまってしまいそうだ。
平坦な氷の上に低い唸りを響かせながら降りる真っ黒な機体をふたりとも何も言わずじっと見つめた。
どうしてケイナは何も言わないんだろう。この機は味方なのかな。いったいどこの船?
セレスは不安を感じていたが、ケイナから危険な緊張が伝わって来ないので成りゆきを見守ることにした。
寒さに頬がぴりぴりと痛んだ。こんな寒さは地球にいた頃だって経験したことがない。吐く息ですら冷たく凍っているように白かった。
どのくらいの時間がたったのか、足の指が冷たさを通り越して痛みを感じるようになった頃セレスは目の前の船から誰かが降りてくるのを見た。
タラップに出る時一瞬身をすくめたように見えた。寒さのせいかもしれない。
船から自分たちまでの距離は100m以上もある。セレスはゆっくりとこちらに歩いて来る人影に目をこらした。
厳寒用の格好をしていて、頭にもすっぽりとフードを被っているので顔がよく見えない。しかし、氷の上を慣れない足取りで歩くその姿を見つめていたセレスの目がやがて大きく見開かれた。
「う……」
かすかな声がセレスの口から漏れた。
ケイナは目だけを少し彼に向けて口を引き結んだ。
フォル・カート。やっぱりこういう手に出たか。
足を踏み出そうとしたセレスは凍え過ぎていて前につんのめった。
ケイナが思わず手を出して彼の腕を掴んだために転倒は免れたが、セレスはケイナに顔を振り向けることもなかった。
振りほどくようにケイナの手から逃れると今度は走り出した。意味不明の声を発しながら何度も転びそうになって走っていくセレスをケイナは見つめた。
振り切られてしまった手を思わず握りしめていたことには自分でも気づかなかった。
「セレス!」
セレスは差し伸べられた腕に飛び込んだ。
セレスは声をあげて泣きながら兄にしがみつき、兄の温かい頬が自分の額に押しつけられるのを感じていた。

 時間としては5分かそこらだったのかもしれない。刺すような寒さがセレスを我に返らせた。厭な予感がする。
セレスは兄から身を放すと振り返った。
不安に見舞われ呼吸が荒くなった。
ケイナの姿がなかった。数歩踏み出してあたりに顔を巡らせた。ケイナ、どこにいるんだよ。
思わず兄を見た。ハルドの顔は険しくなっていた。そしてセレスは覚えのあるエンジン音を聞いた。
嘘つき! ケイナは操縦できないって言ってたじゃないか!
離陸の準備に入ろうとしているユージーの個人艇に向かってセレスは再び走り出した。それを見たハルドが慌ててあとを追った。
「ケイナ! ふざけんな!」
セレスは怒鳴った。白い息が空中に散った。
「降りろ!」
そう叫びながらセレスは手袋をかなぐり捨てると剣の柄を引き抜いていた。
「セレス! 危ない! それ以上近づくな!」
そう言って飛びかかろうとした途端、振り向いたセレスの剣の切っ先をハルドは仰天してよけた。いや、正しくは切っ先があると思ったから避けたのだ。なんだ、この剣は…… 刃が見えない。
「一緒でなきゃ、いやだ!」
セレスは個人艇の前に立ちはだかると、コクピットの前のガラスを睨みつけた。ガラスの向こうにケイナがいるのは分かっていた。
「降りて来い! ケイナ!」
個人艇は相変わらず離陸の音をたてていた。セレスは口を歪めた。
ケイナに剣を向けたくない…… その思いが出た行為は自分の首に剣を降りおろすことだった。
「ばか……!」
ハルドが飛びかかったので、刃はセレスの首をそれたが、緑色の髪とともに鮮血がぱっと氷の上に散った。殺気まみれの剣の刃は、セレスの頬をかすっていた。
兄に組み伏せられたままセレスは大声で意味不明の言葉を喚き散らしていた。
顔の前に見慣れた靴を見てやっと喚くのをやめた。目をあげるとケイナが不機嫌そうな顔で立っていた。
「……ケイナ、諦めろ」
組み伏せていた手を緩めるとハルドは荒い息を吐きながら言った。
「こいつは…… おまえじゃなきゃだめだよ……」
ケイナの顔がかすかに歪んだ。セレスは身を起こすと俯くケイナの顔を見上げた。
「自分の首を切る勇気なんかないくせに」
ケイナは言った。セレスは怒っているような彼の顔を見つめ返した。
「おれを置いてく気なんかないくせに!」
叫ぶセレスの言葉にケイナは目をそらせた。
「おまえを守れないよ……」
「おれがケイナを守るんだよ!」
絶対いやだ。ケイナと離ればなれになるなんて。そんな苦しいことできない。
「ケイナ、こっち見てよ」
セレスの手が顔に伸びてきたので、ケイナは逃れるように顔をそらせた。
いつものセレスならケイナがそこまで拒むともう何もしなかった。伸ばした手も引っ込めただろう。
だから、彼の手が思いきり自分の髪と耳を掴むなんて、予想もしていなかった。
「つっ……」
顔をしかめて引き寄せられたケイナの額に自分の額を突き合わせるようにして、セレスはケイナの顔を正面から睨みつけた。
「おれを置いていかないで。ひとりになろうとしないで。ケイナ、お願い」
表情とは裏腹にセレスの口調は懇願するようだった。
ハルドはケイナの肩がかすかに震えているのを見た。
「やだよ…… おれ、ケイナと離れるの、厭だ…… 一緒にいたいよ……」
「おまえ、治療してもらわないと…… だめだ……」
かすれた声でケイナは言ったが、セレスは手を放さなかった。
「それはケイナだって一緒じゃん。終わってないだろ」
「いつか…… おまえを殺してしまう……」
「そんなことしない」
セレスはきっぱりと言った。
「ケイナはもう誰も殺さない」
どうして。
どうしてこいつはこんなにおれのことを追うの。
どうしておれはこいつと離れるのが辛い?
なぜ、諦めきれない……?
出会ったときからずっと。
ずっと、守りたい、守られたい、一緒にいたい、触れたい、話したい…… 声が聞きたい。
ケイナは歯をくいしばって、洩れそうになる嗚咽と涙をこらえた。
もう、無理だよ…… ひとりになれない。セレスが愛おしい。苦しいほど愛おしい。
たくさんの命を奪っておいて、人を好きになる資格なんかない。
でも、こいつと一緒にいることを許して…… 生きることを許してください。お願い……
誰に乞うでもなく、ケイナはそう心の中でつぶやいていた。
セレスはケイナのくちびるが自分の口の端をかすめたあと、その腕に力一杯抱き締められるのを感じた。
ケイナの精一杯の勇気の親愛のキス。できることなら自分も返したかった。
こんなときでも、おれたちまだ勇気がない。
でも、おれ、ケイナが大事で、大切で。
彼の耳を掴んでいた手をセレスはケイナの首に回してしがみついた。
「凍傷になるぞ」
ハルドは言った。
「仲間も来た。船に戻ろう」
ふたりが顔をあげると、小さな機体が数体空を舞っていた。
軍機だ。その中にユージーがいることを、ケイナはぼんやり感じていた。
『ケイナ』
また誰かが呼んだ。セレスじゃない。誰が呼んでいるのか何となく分かる。
……そう、きっと、グリーン・アイズだ。
ケイナは思った。