29-10 呼ぶ声

「おれの首、絞めようとしやがった」
ケイナは部屋に戻ってハルドの手にセレスを渡すと苦々し気に言い、再びコンピューターの前に座った。
セレスはケイナから離れるときに抗ったがハルドが腕を掴んだので諦めた。しかし大きな目を見開いたままケイナを見ている。こんなに近くにいるのにケイナの姿から目を離さない。
「絶対何か入れてる」
ケイナは猛然とキイを叩き、しばらくして手を止めた。
次に彼が手を動かしたとき、ユージーとハルドにもはっきりと聞こえた。

――― ツレテ イク ―――

 セレスは小さな悲鳴をあげた。
「この声の発信源を探したほうが…… 早いかもしれない……」
ケイナはつぶやいた。
弱々しい少女の声。
めずらしくユージーがぶるっと身を震わせた。

「隠して来たぞ」
ハルドはシャワー室の鏡に不格好なシートを貼りつけて目隠しをするという面倒な作業を終えて部屋に戻って来るとセレスに言った。
しかしセレスは数回まばたきをして目を伏せたまま動こうとしない。
シャワー室に行くのは二度とごめんだ、と言いたそうだ。
ユージーはあれから全く画面から目を離さないケイナに湯気のたったカップを突き出した。
「ちょっと手を休めろ。そんなんじゃ、客観的に分析できないよ」
ケイナはやっと画面から手を離すと髪をかきあげ、目の前のカップに視線を向けてため息をついた。
「シャワー室に入れなきゃトイレにも行けないぞ。子供みたいなことを言っててどうするんだ」
ハルドがセレスをなだめる声が聞こえる。
「やだよ」
セレスは首を振った。
「ひとりはいやだ。ケイナ、一緒に行こうよ」
カップを受け取って口を近づけかけていたケイナがむせた。
険しい目をセレスに向けて罵声を浴びせようとしたが、ハルドに気づいて何も言わずに顔を背けた。保護者が近くにいるというのはどうもやりにくい。背けた顔が少し赤くなっていた。
「いやだ。あの顔見るのは絶対に厭だ。鏡なんか隠しても頭の中できっと見えるよ。おれの顔なんだ。髪が長くて、でも、半分抜け落ちてるんだ。目も落ち窪んでて……」
セレスは顔を歪めてかぶりを振った。今にも泣き出しそうだ。
「音が聞こえるんだ。髪や肉が落ちていく音が聞こえるんだ……」
「ただの幻覚だよ」
ケイナが苛立ったように言った。
「こっちの弱い部分につけこんでるだけだ」
セレスはそれを聞いて俯いて唇を噛み締めた。その姿をハルドは厳しい表情で見つめた。
ケイナが個人艇で飛び立とうとするのを自分を傷つけることで止めようとしたやつが、別人のように怯えている。そんなに恐ろしかったのだろうか。
「今はもう声は聞こえないし…… 何かあったら、おれにも分かるから…… そしたらすぐに行くよ」
仏頂面で顔も向けずにケイナは言ったが、セレスはやはり立ち上がろうとしなかった。
「確かに声は聞こえなくなったな……」
ハルドはつぶやいた。最初から何も聞こえないユージーは訝し気な表情でみんなの顔を見るばかりだ。
「とりあえず伝えたから、少し安心したんだろ」
ケイナはそんなユージーの顔を見て、不機嫌そうに言った。
「『連れて行く』っていうことか?」
ユージーは尋ねたが、ケイナはそれには答えなかった。
「グリーン・アイズというやつが仮死保存されているかもという話は聞いているけど、仮死保存なんだから誰かに意志を伝達できるような状態じゃないだろ? おまけにこんな形で」
ユージーがそう言うと、ケイナはじろりと彼の顔を見た。
「知らないよ、おれは」
ケイナは答えた。
「それでも、しつこく呼んでるんだ。キャッチしてもらえる先を探してる。普通の人間じゃキャッチできないのかもしれない。実体があるわけじゃない。投影したり反射できる場所があれば飛ばして来るんだろ。必死だよ。手をこっちに伸ばしてしがみついてひきずり……」
言いかけて口をつぐみセレスの顔をちらりと見た。
セレスは顔を臥せたまま両手を膝の上でぎゅっと握り合わせている。
あの痩せこけた細い腕は鏡の中から伸びてきてセレスの首を掴もうとしていた。
モニターの中から手を伸ばしておれの首を掴もうとしたように。
抗いたいのに抗えない、ぞっとするような、それでいて陶酔の硬直感。
あの手に掴まれたら何も抵抗できそうにない。そのまま身を任せてしまいそうな気がする。
取り込まれたらどうなるんだろう。
幻覚だと分かっていても怖かった。あれに人の死を左右する力なんかがあるんだろうか。
「なんか分からないな……」
ユージーは理解できない、といった表情でつぶやいた。
「グリーン・アイズったって人間だろ? 呼んでるとか、キャッチとか、そういう能力って存在するものなのか?」
「じゃあ、アライドの予見の能力は?」
ケイナが言うと、ユージーは困ったような顔をした。
「彼らの弱い目で見る予見の能力は何なんだ。ノマドの夢見の能力は何だよ」
ケイナは怒ったように目の前のモニターを睨みつけた。
「おれの暗示の能力は? 作ってしまう人格は? そもそも声が聞こえるおれたちの能力は?」
「分かった。もうそれ以上言うな」
ケイナがどんどん怒りを募らせていることを悟ったユージーは言ったが、ケイナはやめなかった。
「全部、作ったんだろうが! 最初に始めたのは誰なんだよ!」
ケイナの刺すような視線を受けてユージーは険しい顔でケイナから目をそらせた。
そう。カートは最初から関与してる。だから、おれの手で潰すって言ってるじゃねえか。
ケイナは立ち上がると、乱暴に持っていたカップをテーブルに置いた。
「ケイナ」
ハルドがたしなめるような口調で言ったが、ケイナはそれを無視して部屋から出ていってしまった。
「ごめん……」
セレスが小さな声で言った。
「おれが子供みたいなこと言ってるからいけないんだ。ちゃんとするよ。ごめんなさい。ケンカしないでくれよ……」
ハルドとユージーが気まずそうに目を合わせてそらした。
「ケイナを呼んで来る」
セレスはそう言うと立ち上がって部屋を出ていった。
「クレイ指揮官」
ユージーが言ったので、ハルドはセレスを不安げに見送った目をユージーに向けた。
「もう、指揮官じゃないよ」
ハルドは答えたが、ユージーは曖昧にうなずいただけだった。
「停泊をどれくらいで考えてますか」
ユージーの問いを聞いて、ハルドは息を吐いた。
「一週間だな ……二週間は無理だ。地球外の船の気配はそのうち警備にひっかかるだろう。フォル・カートもそのことを一番気にしている」
「5日以内でカタをつけましょう ……緊張状態がもたないし……」
ユージーは目を臥せた。
「あのふたり、早く治療しないと」
「そうだな」
ハルドはそう言うと、ケイナの代わりにコンピューターの前に座るユージーの後ろに立った。
「指示をお願いします」
ユージーはそう言うとモニターに顔を向けた。

「ケイナ」
船の中の狭い廊下で壁によりかかって腕を組んだままぼんやり外を見つめているケイナにセレスは声をかけた。
「悪かったよ。もう、しゃんとするから、怒らないで。ユージーは心配してくれてるんだ」
ケイナはちらりとセレスを見たが、すぐに再び外に目を向けてしまった。
「ずーっと、おれたち、呼ばれてたんじゃないかな……」
ケイナはつぶやいた。セレスはケイナの顔を見た。暖房のない廊下は寒い。部屋からの暖気が流れ出すとはいえ少し体が震えた。
「おれが全部を消し去りたいと思ったように、彼女も自分の残したものを全部消してしまいたいって思ってたんじゃないか」
「残したもの……?」
「自分が意図せず生まれた次世代。そんなもの、彼女は欲しくなかったんだ」
セレスは目を伏せた。彼女が自分で望まないのに生まれた次世代。
おれやケイナや、ハルド兄さんや……?
「そうかもしれない」
セレスは答えた。
「でも、おれたち生きてるよ ……死にたくないよ」
ケイナは無言だった。
「あのね、ケイナ」
セレスはしばらくためらったのち、目を伏せたまま言った。
「おれね、もう、男じゃないかもしれない」
思いもかけない言葉にケイナはセレスに目を向けた。俯いたセレスはかすかに震えていた。
「自分で痩せたっていうのは感じてたし、それ以上は別に…… なんだけど…… その…… あの子の顔はおれだったんだ。おれにそっくりだったんだ。怒ってたんだよ。あの子。おれのこと怒ってるんだ。おれがね、男じゃなくなってるから怒ってたんだ。なんか、そういうのがよく分かったんだよね」
セレスは少し目をあげると、ケイナの視線を見て再び戸惑いがちに目を伏せた。
「あんなすごい怒りを感じたのって初めて。跳ね返せないんだ。だから怖くてしようがない」
震えているのは、寒いからか、それとも怖いからなのか。ケイナはセレスの細い肩を見た。
「ごめん。しゃんとするからって言っといて、こんなこと…… でも、おれ、もうケイナを守れないかもしれない。ずっとおれが守るんだって思ってたけど、だめみたい。もうだめ。怖い。ひとりじゃなんもできない。我慢できない」
セレスの頬に一筋涙が落ちた。
「人に嫌われたこと、これまでもあったよ。この髪と目のせいで嫌がられたこともあった。バスケットがうまくでき過ぎるからって仲間はずれになった。『ライン』でジュディにも疎まれてた。でも、そんなのたいしたことなかった。大丈夫だったよ。だけど、あの子はだめなんだ。あんな憎しみ感じたことがない。絶対おれのこと許さないって思ってる」
セレスは鼻をすすりあげると、こぼれた涙を服の袖で拭いた。
「こんなこと言うの、ほんと、恥ずかしいけど、ケイナ、ずっとそばにいて欲しいんだ。どこにも行かないで。ひとりにしないで」
セレスはケイナの顔を見た。
「あの子はおれを殺したくて、ケイナを欲しがってるんだ……」
ぞくりとした。
抗いたいのに抗えない、恐ろしいのに、それでいて陶酔の硬直感。
陶酔の……
嫌だった。あの陶酔感は恐ろしいほど魅惑的だった。
だからセレスは怯える。太刀打ちできないものに引き離されるかもしれない恐怖感。
おれの怒りはそのことだ。だからおれはいらついてる。
離せるもんなら離してみろ。おまえの誘惑になんか乗らない。
少女のままで70年以上も時間を過ごしたグリーン・アイズ。元の時間に帰るべきだ。
「行かない。どこにも。そばにいる。約束する」
ケイナがそう言った途端、ふたりの頭に声が響いた。

――― ……イナ…… ―――

「うるせえっ!」
ケイナが怒鳴り、セレスが怯えて思わず彼の腕を掴むのと、シャワー室のほうから大きな音がするのが同時だった。
「なんだ! 何があった!」
すぐにハルドが素っ飛んで来た。
「怒鳴ったら、鏡が割れた」
セレスの肩を抱きかかえながら、ケイナは答えた。
「割れたから、もう、鏡からは出て来れないよ」
ケイナはそう言うと部屋に戻るべくセレスの肩を抱いたまま、ハルドの横をすりぬけていった。
「怒鳴ったら? ……割れた……?」
ふたりの姿を見送って、ハルドはシャワー室に目をやり、そして再び振り向いてそこにユージーが立っているのを見た。
「クレイ指揮官……」
ユージーが声をかけた理由はなんだったのだろう。ハルドは自分の表情を見られまいと彼から顔を背けた。
「指揮官は、やめてくれないか」
ハルドは言った。
「もう、何の地位も権威もないんだから」
割れた鏡を片付けるべく、ハルドはシャワー室に足を向けた。