27-7 ミント・キス

 セレスはくしゃみをひとつして鼻をすすった。池の面は静かだ。鏡のようにしんと静まり返っている。
鼻をすすったのはくしゃみのせいだけではなさそうだった。気を許すと涙がこぼれそうだ。
カインとケイナがキスをしていたのがショックだったのではなく、あのふたりを見たときに今まで感じたこともない気持ちが沸き起こったことがショックだった。
それは怖れだった。今まで見たこともないふたりのおとなの顔。
カインとケイナ、もちろんアシュアもずっと一緒にいたけれど、「男」とか「おとな」という意識ではあまり見ていなかったかもしれない。
いや、もちろん女性ではなく男性だけれど……
セレスは立てた膝に顔を埋めた。なんだか取り残されたような気分だった。怖かった。
彼らのことをなんだと思っていたんだろう。
友人、兄、保護者…… そんなふうにしか見ていなかったかもしれない。
対等に扱ってくれているようでいて、彼らはいつも自分を守ってくれていた。
意識のないケイナのそばで彼の手を握りしめていたのも、半分は自分が救われたいがためだった。
そばにいてくれる人を失うことが辛い。そのことのほうが大きかったかもしれない。
男の子、ではなく、男の人。おれはいったいなんなんだろう……
 ふと背後に気配を感じてセレスは振り返った。
リアがびっくりしたような顔で立っていた。手にタオルや袋を抱えている。
「どうしたの?」
セレスは顔をそらせた。どうしてひとりになれないんだ…… セレスは眉をひそめた。
「水浴び…… したいんだけどなあ……」
遠慮がちに言うリアの言葉にセレスはしかたなく立ち上がった。帰ろうと踵を返しかけたときリアが言った。
「良かったら、一緒に泳ごうよ」
「やだよ」
セレスは即座に答えた。そんな気分になれるはずもなかった。
「じゃあ、消毒だけ、手伝ってくれない?」
リアは探るような視線でセレスを見て言った。
リアが肩に傷を負っていたことを思い出してセレスは目を細めた。
「傷…… 大丈夫なの? 水に入って……」
リアは笑った。
「もう癒着してるんだけど、水に入ったら消毒だけしときなさいってリンクが言うから…… だからそれ手伝って」
セレスは渋々うなずいた。
リアはまだ肩を大きく動かせないのか、水に入ると少しだけ片手で泳いでいった。そして岸に座って待っているセレスを振り向いた。
「なにかあったの?」
彼女の言葉にセレスはかぶりを振った。
嘘ばっかり。そんな顔してなんにもないってことはないでしょ。
リアは思ったが口には出さなかった。
しばらくして戻って来たリアにセレスはタオルを放ってやった。
リアは一枚服を着ていたが、素早く体をすっぽりと覆うとセレスの横に腰をおろし、袋からリンクが持たせたらしい消毒薬を取り出した。
「肩のね、ちょうど自分じゃ見えないところなの」
リアは髪を左側に寄せると首をかしげてセレスに消毒薬を浸したガーゼを渡した。
リアの白いうなじにセレスは少し顔を赤らめた。肩のちょうどてっぺんあたりに痛々しい長い傷がついている。確かにもうふさがってはいるようだ。
「危ない……」
セレスはガーゼで傷を拭きながらつぶやいた。
「これ、ズレてたら、頸動脈切りそうだ……」
「うん…… そんなこと、リンクも言ってた」
リアは答えた。セレスは手を止めた。
「どうしたの?」
リアはセレスの顔を見た。セレスは泣き出しそうな顔をしていた。
「リアが死なないで良かった……」
「セレス……」
リアはびっくりした。いったいセレスはどうしちゃったんだろう。
「みんながものすごく危ないことになってて、戦ってんのに、おれ、何にも知らなくて……」
「何言ってんのよ。あんたとケイナが助けに来てくれたんじゃない」
リアは肩までタオルを引き上げるとセレスのほうを向いた。
「あんた、なんか、変よ。どうしたの?」
「なんでもない」
セレスはガーゼをリアに渡すと顔を背けた。リアはため息をついてしばらくセレスの顔を見つめた。
「あんたさあ、わりと自分ひとりで全部押し込めちゃうこと多いわね」
思いがけないリアの言葉にセレスは彼女の顔を見た。リアは体をくるんだタオルで髪を拭いていた。
「ケイナとは何も話さなくても分かり合えるのかもしれないけど、ほかの人はさ、分からないわよ」
リアはタオルで髪をこすりながら少し怒ったように言った。
何も話さなくても分かり合える? そんなことないよ。わかんないよ。ケイナのこと。
セレスは口をへの字に歪めた。
「子供はね、大人が聞いてあげるよって顔してあげないとちゃんと話しができないことあるのよね。それでもいつかはきちんと言うのよ。自分の言葉で。あんた子供よりタチが悪いわ」
セレスはそれを聞いてむっとしてリアを睨みつけ、そして顔をそむけた。
「なによ、その顔。何にも言わないで人前でそういう顔見せるのって、我がままとしか言えないわね」
「リアに言われたかないよ!」
セレスは思わずそう言ってしまって、はっとして口をつぐんだ。リアはちらりとセレスを見た。
「そりゃ、ま、そうかもね」
気まずい空気が流れた。しばらくしてリアがくしゃみをした。
「風邪…… ひくよ」
セレスは小さな声で言ったが、リアはそれには答えなかった。彼に目を向けずにリアは言った。
「セレス、ちゃんと生きなさいよ」
セレスはリアに目を向けた。
「あんた、ちゃんと治療してもらって、ちゃんと生きて、ケイナと結婚して子供作りなさいよ」
「子供?」
セレスは顔を真っ赤にした。
「そ、そんなこと考えたこともないよ」
なんでいきなり子供が出るんだ?汗がじわっと背中に浮かぶのをセレスは感じた。
リアはパニックを起こしたような表情のセレスを見て笑った。
「子供ってかわいいよ。わたし、子供が大好き。生めるんなら、たくさん生みたいわ。子供の顔は人を幸せにするわ。みんなそうやって人を幸せにして来たのよ」
リアの髪からしずくがひとつ草の上に落ちた。セレスはそれを見つめた。
「トリがね、時々言うの。目の前にいる命は誰も代わりができない。出会う人の代わりは誰もいない。作られたとかそうでないとか、もう関係ないの。わたしたちはいなきゃならないからいるの」
「リアは…… 女性に生まれて良かったと思う?」
急なセレスの問いにリアはびっくりして彼の顔を見た。
「なあに? いきなり……」
セレスは戸惑ったように目を伏せた。
「ん…… おれ、よく分からないんだ。だって、ずっと自分のこと男だと思ってたし。遺伝子にフィメールがあるからって言われても、女性になるってどういうことかよく分からないんだ」
「いいと思うこともあるし、面倒だと思うこともあるわ。そんなの男だって一緒でしょ」
リアは答えた。
「あんたを見てると、どっちかに決めたらって思うことあるわ。見た目もどっちつかずっていうのもあるけど、頭がどうも女性っぽいところと男の子っぽいところと両方ごちゃまぜで、なんだか痛々しいわよ」
リアは息を吐くと池の面に目を移した。
「なんかさ、男であることに引け目があって、でも女になるのも怖くてって…… そんな感じなんでしょ?」
再び昼間の光景が甦ってセレスはドキリとした。引け目? 男であるっていうことの? どうして?
また恐怖が沸き起こった。おれは何を求めてるの?
ケイナの夢の中に入ったときもやっぱり怖かった。甘美で…… 怖い、ケイナのキス。体が震えた。
「寒い?」
セレスの体が震えているのを見て、リアはびっくりして言った。
「あ、いや、そうじゃない」
セレスは慌てて答えた。リアはそんなセレスをじっと見つめた。
「ケイナとなんかあったの?」
勢いよくぶんぶんと首を振るセレスにリアは思わず吹き出した。
「こういうことは分かりやすいわねえ。 何にもなさ過ぎるからそうやって不審に陥るのかしら」
セレスは口を引き結んでリアから顔を背けた。彼女の大人びた表情が胸に突き刺さった。
大人びたじゃない。リアは自分よりずっとずっと年上だ。きっと自分の知らないことをたくさん知っているのかもしれない。
「何が信じられないの?」
リアは顔を背けるセレスを覗き込むようにして言った。
「ケイナなの? 自分なの? どうして? ケイナはみんなを信じてるわよ」
「え?」
思わず振り向いて、リアの顔があまりにも近くにあったのでセレスはぎょっとした。
リア独特の花の香りが鼻をくすぐる。
「セレス!」
リアはセレスの手をとって自分の手で握りしめた。少し凍えた手の冷たさがセレスの手に伝わった。
「なんでそんな顔してんの? 安心しなよ。ケイナはあんたのこと大好きよ。それでね、みんなが彼のこと好きなの。わたしもアシュアもカインもリンクもトリもみんなが」
みんなが彼のことを好き…… それは分かるけど……
目を伏せたとき、口の端に花の香りを感じてセレスははっとした。
リアがノマドの親愛のキスをしてくれていた。セレスはみるみる顔に血が昇るのを感じた。
「大好きな人にはキスしたくなる。ノマドのキスはそういうことなの。代わりのいない自分の前にいる人。男も女も関係ないわ」
大好きな人にはキスしたくなる…… セレスはリアの顔を見つめた。
「わたしはセレスが大好きよ。代わりのいないわたしの前にいる人だもの。大切な出会った人だもの。元気だしなよ」
リアはもう一度セレスに顔を寄せた。
「やだ、泣かないでよ。元気づけるつもりだったのに、逆効果じゃない」
セレスの大きな目から涙が溢れたので、リアは慌てた。
こういうところ、女の子っぽいんだよなあ、とリアは心の中で思った。
「リア、なんだか少しミントの香りがする……」
「ああ」
泣きながら言うセレスにリアは思い出したような顔をした。
「ここに来る前、ミントのお茶を飲んだから。ごめん、そんなに嫌いだったの?」
嫌いなはずがない。ミントの香りはケイナの香りだ。
たがが外れたように泣き出したセレスにリアは少し困惑した顔をしたが、自分のタオルで彼の顔を拭いた。
「そんなに泣いたらもらい泣きしちゃいそう。ねえ、そんな顔してたらケイナが悲しむよ。あたしも悲しいわ」
リアは優しい。この優しさをおれは知らずに疎ましく思ったこともあった。リア、ごめん。
自分の肩に頭を寄せかけさせて、あとからあとから溢れでるセレスの涙をリアは根気強く拭ってやった。
片手はしっかりとセレスの手を握っている。
夢見のトリと同じ血を引くリアの手は、彼ほどの力はなくても心の影を吸い取ってしまうのかもしれない。張り詰めた気持ちがゆっくりほどけていくような気がした。
「……ありがとう。リア、ありがと。おれ、ちょっと元気出たかも」
しばらくしてセレスは手で涙を拭って言った。
「ほんと?」
「うん」
「じゃ、帰ろう。寒くなってきちゃった」
リアは笑った。立ち上がると、リアよりもセレスのほうが背が高い。
セレスは腕をあげるとリアの肩を抱き寄せた。少しでも寒くないように。
「こういうことって、男の人がするんだよね、きっと」
セレスが言うと、リアは笑った。彼女はセレスの腰に手を回した。
「女の子になったらあたしの妹になってね。男のままなら弟ね」
セレスは笑った。