23-5 一個分の命

 飲料水は集落の一番外れのテントの中にある。独自にろ過消毒して汲み溜めているのだ。
ケイナは水を汲んで戻りかけてふと人の気配に気づいて足を止めた。
振り向くとリアが同じように水差しを抱えて立っていた。
「水がなくなったの? 言ってくれれば私が汲んであげたのに……」
リアはケイナの手にある水差しを見て言った。ケイナは無言だった。
ケイナが立ち去ろうとするとリアはそれを引き止めるかのように再びケイナに声をかけた。
「ねえ」
ケイナは再びリアに目を向けた。
「このあいだ…… ありがとう。ちゃんとお礼を言ってなかったわ」
一瞬何のことか分からなかったが、池で溺れそうになったのを助けたことだと悟りケイナは曖昧にうなずいた。
「セレスの様子はどう?」
リアの言葉にケイナはやはり何も答えず目をそらせた。
彼女と話をする気分ではなかった。今のケイナにはリアはうっとうしい部類に入る。
リアはそんなケイナの顔を見て少しためらったのち口を開いた。
「あの…… こんなときこんなこと言うのは悪いかなって思うんだけど…… 今度あたしと手合わせしてもらえないかしら……」
ケイナは思わずリアの顔を見た。
「ケイナは外で訓練を積んできてたんでしょ? あたしに手ほどきしてもらえない?」
「断わる」
きっぱりとしたケイナの言葉にリアは口を歪めて目を伏せた。
「そう言うと思ったわ」
リアは首を振った。
「でも、私、もっとちゃんと剣を使えるようになりたいのよ。それ以外に何もできることがないんだもの」
ケイナは何も言わなかった。どう懇願されてもリアに剣の手ほどきをする気は毛頭なかった。
「悔しいの。私はハーブの知識もないし、医術も占術もできない。料理もできない。せいぜい子どもの相手をしてやれるってことくらいだわ」
「それでいいじゃないか」
ケイナはリアを見つめて言った。
「子どもはノマドでなくったって貴重な存在なんだ。その子供の相手ができるんなら十分だろ。教えてやれよ。ノマドでの生き方や、これからの地球の行く末を」
そう言ってケイナはリアから目をそらせた。
「それに、トリはあんたがいつかは出ていくんじゃないかって心配してるみたいだ。そばにいてやれよ。兄妹なんだろ」
「いくら兄妹でも、いつかは離れなくちゃいけないわ」
リアは少しため息をついて足元に視線を落とした。
「兄さんだって、いつかは結婚するわ。あたしがいつまでもそばにいちゃ悪いわよ」
「それはお互いさまだろ……」
「ケイナ……」
リアは思わずケイナが身構えそうになるまで近づくと、ケイナを見上げた。
「ほんとに何も覚えてないの?」
ケイナは目を細めてリアを見た。
「昔のこと、あたしたちと一緒に暮らしたこと、何も覚えてないの?」
リアの目にはすがるような色が浮かんでいた。
ケイナはリアの目を見た。薄やみの中で彼女の顔の造作がくっきりと陰影となって浮かび上がっている。気性が荒い癖に彼女の表情はいつも泣き出しそうな感じだ。まっすぐに相手を見据える視線は威嚇と怯えの相反する感情を思わせる。
「あたしたち、何も剣だけを振り回して遊んでいたわけじゃないのよ。森に行ってハーブも摘んだ。一緒に水あびもした。ケイナはあたしのことをきれいだと言ってくれたわ。あたしもケイナが大好きだった。夜はふたりで抱き合って眠った」
これ以上リアにせっつかれるのは避けたかった。ケイナはリアから目をそらそうとしたがリアはそれを許さなかった。視線の先に回り込むリアをケイナは睨みつけた。
「わたしたち、結婚しようって約束してたのよ。大人になったら結婚しようって」
「子供の頃の話だろ……」
ケイナが口を挟もうとすると、リアはさらにケイナに顔を近づけた。
「子供の頃の話でも、私はずっと待っていたのよ。必ず帰って来るって信じてた。急にいなくなって、毎日泣いて暮らしたのよ。一緒にいるってあなたは約束してくれたのよ」
リアのかすかに花の香りを含んだ呼気がケイナの顔にかかった。
「ケイナはきれい…… ケイナの髪に指を絡めて眠るのが大好きだった。私たち、キスしながら眠ったのよ」
リアはそっと指を伸ばすとケイナの唇に触れて言った。ケイナの目が険しくなった。
細くしなやかな指先の感触は決して嫌悪をもたらすものではなかったが、どうしようもなく気持ちが苛ついた。
「キスしてよ。昔みたいにキスしてよ。どうして帰って来たのに知らん顔するの」
そのリアの言葉にケイナは一瞬苛立ちの表情に顔を歪めたあと、リアの頭を掴んで自分に引き寄せた。
リアとケイナの持っていた水差しが地面に落ちてこなごなに砕けた。
乱暴なほどに唇を重ねてきたケイナにリアは自分の要求に応えてくれたと思っていたが、 しばらくして恐怖に顔を歪めた。
ケイナの力が強すぎる…… 子供の戯れではない荒々しさを悟ってリアはパニックに陥った。
あっという間に地面に突き倒されてケイナの手が乱暴に自分の首を掴み、唇が首筋におりた。
「ケイ…… やめっ……」
ケイナの手が強引に太ももから着衣の下に入り込もうとしたとき、リアは無我夢中で剣を引き抜いていた。
ケイナはあっという間に身を離すとその切っ先をやり過ごした。まるで最初からそのことが分かっていたかのような動きだった。
「なにするのよ……」
リアはケイナに剣をつきつけたまま震える声で言った。
「自分から挑発しといて、それかよ」
ケイナはリアを睨みつけた。
「キスしてって言ったのよ」
「ふざけんじゃねえ!」
ケイナの目の鋭さにリアは思わず口をつぐんだ。
「おまえはおれなんか見てねぇじゃねえか。おれはもうノマドにいた子供の頃のおれじゃない! 何も覚えていないし、何も知らない! そんなおれの弱味につけこんでおれを試そうとするな!」
「試すなんて、そんなつもりないわ!」
リアは思わず叫んだ。
「だったら、なんのつもりだったんだよ!」
リアはぐっと詰まった。
「きれいだと…? 冗談じゃねぇ。この顔のおかげでどれだけ厭な思いをして来たと思ってんだ…… 町を歩けば片方のピアスで男娼と間違われ、香水臭いババアに声をかけられ、リンチに遭って左手を砕かれて……」
ケイナは小刻みに震える肩で息をついた。
「一回寝たらいくらになるか知っているか! おれの…… おれの屈辱の代価がどれくらいのもんか知ってるか!」
リアは目を見開いてケイナを見つめた。
「欲しけりゃいくらでもキスしてやるよ! 寝たけりゃいくらでも寝てやるよ! それで気が済むんなら、それで助けるというのなら……!」
「やめて!」
リアは叫んだ。ケイナははっとして口をつぐんだ。
「あたしは…… ケイナをそんなふうに見てるわけじゃないわ!」
リアはくちびるを震わせた。
「どうしてそんなふうに言うの…… あんたは子供の頃の記憶がない。わたしはここを出てからのケイナの記憶はないわ。同じよ! それでも…… ケイナが好きなのよ!」
「あんたのこと…… 好きとか嫌いとか……」
ケイナはいまいましそうに髪をかきあげた。
「覚えてないんだよ…… なにも……! 今そんなの考えられないんだよ……!」
かすれた声でケイナはそう吐き捨てると、彼はリアに背を向けた。そしてリアから離れていった。
「ケイナ!」
リアは呼んだがケイナは振り返らなかった。
リアは散らばった水差しの破片を見つめた。しばらくして身をかがめると、ひとつひとつ拾い始めた。
涙がこぼれた。
「あたしは…… あたしは、ケイナが好きなのよ…… ただそれだけだわ……」
リアは膝に顔を埋めて泣いた。