16-4 逃亡

 1時間ほど飛んだ頃、目の前に見渡す限りの水平線が広がった。
セレスは思わず目を見張った。水平線の彼方に地球の青い姿が浮かんでいる。
ケイナは湖を取り巻く林を越えて、湖岸の砂の多い部分にエアバイクを降下させた。
「すごいなぁ……」
セレスはエアバイクを降りると感嘆のため息とともに星空の下で輝く湖を見つめ、ゆっくりと波うち際に歩み寄った。
「水がきれいだ……」
セレスは足下に寄せる透明な波を見てつぶやいた。
「ほんとは海のつもりで作ってんだよ」
ケイナはバイクを降りると砂浜に腰をおろして言った。セレスは振り向いた。
「だけど、水は淡水だし、ちっせぇし…… どう見たって湖だよな……」
「ケイナは海を見たことがあるの?」
「ない」
ケイナは答えた。
「おれはここのノマドで育ってるんだ。地球には一度も行ったことがない……」
「ほんとの海はこんなにきれいじゃないよ」
セレスは肩をすくめた。
「海水だけじゃなくて、周囲の大気も汚れているから防菌マスクなしでは近付けないんだ」
「知ってるよ…… ラインのライブラリで見た」
ケイナは髪をかきあげた。そしてぱたりと身を倒して仰向けに寝転んだ。
「ここだって似たようなもんさ。空調システムが壊れたら息できねぇじゃねえか」
「今度一緒に地球に行こうよ。休暇のときにでも」
セレスはケイナに近づくと、その脇に腰をおろした。
「叔母さんにケイナのこと紹介するよ。叔母さんの作るミートパイはうまいんだ」
ケイナはぼんやり空を眺めていたが、やがてその目を閉じた。
「地球か…… いいな……」
「そうだよ。絶対一緒に行こう」
セレスは言ったが、ケイナは何も言わなかった。
セレスはケイナが眠ってしまったのではないかと思った。
眠れるなら眠ったほうがいい。そう思って再び湖に目をやろうとしたとき、ケイナが口を開いた。
「おまえといると、どうしてこんなに気持ちが落ち着くんだろうな……」
セレスはケイナの顔を見た。
ケイナは遠い目をして空を見ていた。
この人の顔は本当にきれいだ…… セレスは改めて思った。
肌がまるで女性のようにきめ細かい。
今の時期にありがちな吹き出物やにきび跡なんか片鱗も見られないし、それぞれのパーツが意識して作られたように整然と配置されている。
長く続いた緊張生活のおかげで荒んだ翳りを見せる瞳も、笑うとかすかに人なつっこさを感じさせる。
均整のとれた体も申し分ない知能も、彼はありとあらゆる人の目を奪う要素を持ち合わせている。
こんなケイナがどうしていろんな人間から反目を受けなければならないのか理解できなかった。
ユージーはケイナのことをあんなに考えてたのに。
いったい誰がケイナを憎んでいるんだろう。
「おれも、ケイナのそばにいると一番落ち着くよ」
セレスは言った。
「おれさ、アルとずっと仲が良かったんだ。アル・コンプ。ロウラインで向かいの部屋にいたやつなんだけど…… おれ、地球からこっちに来たとき、ジュニアスクールでみんなとうまくいかなくてさ。おれの髪の色や目の色や、なんやかやでどうしても回りから浮いちゃうんだ。でも、アルだけはそんなの関係なしで、おれのこと友だちとして見てくれてたんだ。いつまでも一緒にいたいけど、おれたちもいつかは別の道を歩くようになるんだなって思う。 でも、ずっとずっと友人でいようなって…… そう約束したんだ」
ケイナは寝転んだまま、黙ってセレスの話を聞いていた。セレスはふと視線をおとした。
「いつからだったかな…… おれ、アルのことあんまり考えなくなってた…… ケイナと空港に行った休暇の時、おれ、アルとほんとは約束してたんだ。あいつのコテージに行くって…… でも、おれ、そのこと全然忘れてた。休暇が終わってトニに言われるまで思い出さなかったんだ。でも、アルは怒らなかった。それより心配してた、って言ってた。それで……」
セレスは言葉を切った。
「おれのこと、だんだん遠くなってく気がするって言った…… おれ、今でもアルのことを大事に思ってるよ。だけど…… だけど、アルの言ったことはある意味では当たってる……」
セレスは髪をかきあげた。
ケイナの癖がうつってしまっていることに自分では気づかなかった。
「おれの頭の中はアルよりもケイナのことのほうが多くなってるんだ。どっちが大事かなんて考えたくもない。考えたくもないけど…… おれ、分かるんだ…… ケイナのことのほうがおれにとって重要になってるんだよ」
セレスは座ったまま足下の砂を蹴った。
「ケイナと離れることになったら、おれ、今度は別の誰かのことをケイナよりも重要に思うようになるんかな。そんなふうに考えると、自分が最低な感じがするんだ」
セレスはそこまで言ってはっとしたような顔になった。
「なんでこんなこと言ってんだろ。こんなこと言うつもりじゃなかったんだ……」
セレスはがしがしと頭を掻いた。そしてケイナを見た。
「ごめんよ。おれ、ケイナともずっと友だちでいようと思うって、言うつもりだったんだ」
そこまで言って、ケイナの表情がさっきと違うことに気づいてセレスは口をつぐんだ。
ケイナは同じように空を見ていたが、その目に険しい光が宿っていた。
「ケイナ……?」
セレスはおずおずと言った。
「なんか…… 怒ってる……?」
「別に」
ケイナはぶっきらぼうに言うと身を起こした。
横顔が怒りに満ちている。やっぱり怒っているじゃないか…… セレスは思った。
「ケイナ…… おれ、何か気に触ること言ってたら謝るよ。思ってること自分の中に閉じ込めないで口に出して言ってくれない?」
しかしケイナは黙って立ち上がると波打ち際に沿って歩き始め、そのままずんずん水際を歩いて行った。
セレスは慌ててあとを追った。
「ケイナ、どうしたんだよ。おれ、こんなとこまで来てケンカして帰るのいやだからな!」
ケイナの足がぴたりと止まった。彼が振り返ったので、セレスは殴られるのかと思い思わず身構えた。
しかし、予想に反して彼はかすかに笑みを浮かべていた。
「おまえはいいな……。なんでも思うことを口に出せて……」
「わ、悪かったな……」
セレスは戸惑ったようにケイナを見て口を尖らせた。
「おまえみたいに自分の気持ちを言葉で表現できたらどんなにいいだろうって思うよ……」
ケイナは波うち際に目を落としてつぶやいた。
「ケイナだって言ってることもあるよ。少しずつ増えてるよ。前はもっと何も言ってくれなかった」
セレスは言った。
「今、何を怒ってたの?」
セレスはケイナに一歩近づいて尋ねた。ケイナはちらりとセレスに目をやって、再び目を伏せた。
「怒ってたんじゃない…… 自分が分からなくなったんだ……」
「え……?」
セレスは怪訝な顔をした。
彼は一生懸命言葉を探しているようだった。セレスは辛抱強く待つことにした。
「おまえが…… アル・コンプの話をした時…… おまえがいつかおれよりもほかの人間のことを大事に思うようになるのかもしれないと言った時……」
ケイナは打ち寄せる波に足の先をひたした。靴の先が濡れたが気にならない様子だった。
「こういうのって…… つらいってことなのかな……」
「ケイナ……」
セレスは何かいい言葉がないかと思いをめぐらせたが、見つけることができなかった。
「決心してたんだ…… おれはみんなに甘えてしまう。どんどん自分が弱くなっていくような気がする」
「人に頼ったり甘えることって悪いことじゃないよ」
セレスはうつむくケイナの顔を見て言った。
「おれもカインやアシュアも、ケイナのことが好きだよ。人間なんだもの、わがまま言うことだってあるだろ? そんなの別になんとも思わないよ。つらいならつらいって言ってよ」
「いつかは離れなくちゃならないんだよ!」
ケイナはセレスを見て怒鳴った。その顔はさっきとうって変わって険しくなっていた。
「おれは18歳になったらホライズンに行く。外界から隔離され、一生友人と笑い合うことも怒ることもない。血液を抜かれ、脳波を調べられ……」
そこで彼は唇をかみしめ、そして続けた。
「勝手に精子を取られ、おれの知らない間におれの子孫を残される……」
セレスは絶句してケイナを見つめた。ケイナはいまいましそうにかぶりを振った。
「なんで、こんな時に…… なんでこんな時になって……」
ケイナは再びセレスに背を向け歩き始めた。
波打ちぎわぎりぎりを通るのであっという間に足がずぶぬれになった。セレスは慌ててケイナのそばに駆け寄った。
「ケイナ、足が濡れてるよ」
「怖いんだ……」
ケイナはずんずんと歩きながら絞り出すような声で言った。
「ホライズンに行くのが怖いんだ…… 行きたくない。本当は行きたくなんかない!」
ケイナは怯えて震えていた。まるで小さな子供のようだ。
それを振り払うように彼は足を前に出していた。
セレスはしばらくためらったのち、ケイナ前に回り込んで力づくで彼の腕を掴んだ。
セレスの手が触れた瞬間、ケイナはびくりとして手をふりほどこうとした。顔にあからさまな嫌悪感が浮かんでいる。しかしセレスはおかまいなしに怒鳴った。
「おれはケイナがどっかに行くことなんか絶対に許さないからな! 絶対許さない!」
セレスは無我夢中だった。
「アシュアもカインも絶対そんなの望んでないっておれ、信じてる! おれ、何とかしてケイナを助けるよ! 絶対助けるよ!」
ケイナは混乱していた。セレスが掴んでいる腕が熱い。堪えられない嫌悪感が襲った。
彼はセレスの手を無理矢理振りほどくと、セレスから離れてあとずさりした。
「ケイナ……」
セレスは戸惑ったようにケイナを見つめた。
「おれに…… 触るな……」
ケイナはそう言って顔を背けた。
嘘だ。そうじゃない。ケイナの頭にぐるぐると混乱した思いがうずまいた。
「おれを、そんな目で見るな……」
ケイナは両手で顔を覆った。
「どうすれば……」
セレスはつぶやいた。
「どうすれば、いいの…… どうすればケイナはラクになるの。こんなケガ、おれ、もう全然気にならないよ。ケイナが傷つかないんなら、なんだって受けて立つよ……」
セレスは自分の顎を押さえてつぶやいた。
剣となり、盾となり。
「やめろ……」
彼に触れられない。触れたらきっと壊してしまう。
そばにいたいと思うのに、そばにいることに罪悪感を感じる。
どうすることもできない自分をケイナは感じていた。