16-1 逃亡

 自室に戻ったカインを見送り、目覚めたときのケイナがどうなっているか分からないのでアシュアはしかたなくケイナの部屋で夜を明かした。
 朝になって目を覚ましたケイナの態度はアシュアも呆れ返るようなものだった。
「なにやってんだ、そんなところで」
疲れ切った様子でソファに腰かけているアシュアを見てケイナは言った。
「おまえの寝顔を一晩中見ていたくて」
アシュアはやけくそで答えた。
ケイナの人格はやはりどこかで入れ代わったのだ。彼はきっとカインを殴ったことを覚えてはいない。
「おまえ、今この時点で『ライン』を辞めたいと思ってるか?」
アシュアはじろりとケイナを見て言った。ケイナは目をそらせた。
「やっぱりそんなことを言ったのか……」
彼は答えた。
「覚えてないのか?」
アシュアは疑わし気にケイナを見た。ケイナはうつむいたまま髪をかきあげてうなずいた。
「途中で記憶が途切れてる…… おれ、何かしたか?」
「いや」
アシュアは即座に答えた。
「鎮静剤がんがん打ってたからぐっすり眠ってた」
アシュアを見るケイナの目は決してそれを信じてはいないようだったが、彼は何も言わなかった。
ケイナは怯えている。アシュアはそう思った。
「まあ、いろいろ喚き散らしてたけども冗談半分でこっちも聞いてるから気にするな。セレスはちゃんとおれたちもガードするから。おまえ、自分だけを責めんじゃねえぞ。セレスはそんなおまえを望まないからな」
アシュアが言うと、ケイナはうなずいた。彼らしからぬ素直な態度だった。
このケイナももしかしたら本当のケイナではないかと思うと、アシュアは複雑な気持ちだった。
ジェニファに早く会わなければ。彼女が暗示を解く方法を知っていればいいんだが。
アシュアは髪をかきあげているケイナを見て唇を噛み締めた。

「左の上顎と下顎との接合部分の損傷が大きかったんだ。分かるかね」
医師はスキャンした顎の画像をセレスに見せながら言った。
セレスはうなずいた。
「ここは普段よく使う場所だから骨部再生促進をしてるけれど、もしかしたらあとで何か症状が出るかもしれない。何か異常に気がついたら早めに言うんだよ。ほうっておくと口を開けることができなくなる。やはり訓練に復帰するには一週間かかりそうだね。講議のほうは明日から出てもかまわないが、大口あけてのおしゃべりは禁物だ」
「はい」
医師は冗談を言ったつもりなのだろうがセレスはとても笑うどころではなかった。
また一週間も訓練に出られない。落胆は生半可なものではなかった。
「咀嚼はできるから時間をかけてゆっくり食べるようにしなさい。あまり堅いものは避けるように。補食の流動食を出しておくから、それと一緒に。そうすれば少しでも早く回復が見込める」
医師は慰めるように言った。セレスは立ち上がると医師に一礼して医療室をあとした。
訓練を休んでしまったら取り戻すのに倍の時間がかかるのは分かっていた。
だけど、どうしようもない。
 時計を見ると夕食の時間をとうに過ぎていた。食べて体力をつけないと早く復帰できない。
医療室に行く前に食事をすませればよかった、と思った。
どうせ余りものしかないと思いながらダイニングに向かい中を覗き込むと、案の定もう人の気配はなかった。
いや、奥にひとりだけ座っていた。
ユージーだ。
やはり食事は諦めようときびすを返しかけたとき、ユージーの声が響いた。
「ちゃんと食えよ! 訓練に差し支えるぞ」
セレスは躊躇したが、思いきって足を踏み入れた。
大皿からこそげとるように残り物の料理をすくって自分の皿に入れていると、背後でユージーの声がした。
「厭な思いをさせて悪かったな」
「え?」
セレスは思わず手をとめて振り返った。ユージーは背を向けて座ったまま振り向かなかった。
「つくづく何をしでかすか分からねえやつらだ。バッガスを2回も半殺しの目に遭わせることになるとは思わなかった。小汚い変態野郎を全員報告させたはずだった。まさかまだ残っているなど思いもしなかった……」
セレスはユージーの言っていることの意味を飲み込むまでに相当の時間がかかった。
「そんなところに突っ立ってないで、座って食えよ」
ユージーはトレイを持ったまま立ち尽くしているセレスに顎で椅子をしゃくった。セレスはあえてユージーのそばには座らなかった。彼への警戒心を解くことはできなかった。
「今度はもう容赦しないつもりだった。場合によっては腕の一本くらいは使えなくしてやってもよかった」
ユージーはこちらを見ずに話した。
セレスは背中にぴりぴりとした緊張が走るのを覚えた。
「だが、あいつは鼻や口から血を流して泣いて懇願するんだ。自分がやったんじゃないと…… 最後にあいつの顎を蹴り飛ばして病院送りにしてやった。おまえが受けたほどの傷は与えられなかったが……」
ユージーはからん、とフォークを皿に放りなげ、セレスを見て笑った。
「おかげでおれは二週間謹慎だ。メシの時間しか部屋から出られない。だからしばらくサポート訓練をしてやれない。悪いな」
セレスはユージーから顔を背けた。
「悪いけど、あんたの言うこと今はあんまり聞きたくない」
セレスは言った。
「バッガスを殴ったくらいで終わるとでも思ってんのかよ?」
ユージーはテーブルの上のトレイを睨みつけているセレスの顔をじっと見つめた。
「怖かったし…… 死ぬんじゃないかと思ったよ。でも、おれは別に大丈夫だよ。だけど、ケイナはずっと苦しんで来たんだ。そのために感情抑制装置までつけられて……」
セレスは唇を噛んだ。
「あんた、そのこと分かってんのかよ。なんでこんなことするんだよ」
ユージーは皿に置いたフォークを持ち上げてもて遊んだ。
「おまえがどう思おうと自由だし、おれもいちいち弁解する気もない。実際、バッガスを病院送りにしたって、おれはカートの名前のおかげで謹慎で済んでるんだ。おまえがむかつく気持ちも分かるよ」
セレスは黙って皿を見つめた。
「しかたない。そばにいて守れるんならそうしてる。 だけど、おれはあいつに会えないんだ」
「え?」
セレスはユージーを訝し気に見た。彼が何を言おうとしているのか分からなかった。
「おれは、ここに入って4年になる。ケイナが入って一年目にあの事件が起こった。だが、おれはあいつに一度も会ったことがない。おれはケイナがここに入ってからあいつの身長が今どれくらいで、髪型がどんなので、どんな声になっていて…… 全然知らない」
「知らないって…… それは…… あんたとケイナじゃカリキュラムが違うからだろ」
それを聞いてユージーの険しい目が向けられた。