15-1 分身

 トウ・リィは仏頂面で何も映っていないモニターを見つめていた。
セレスの母親、エリサ・ロランの情報が全く手に入らなかったからだ。
長く延ばした自分のつめを眺めた。
しばらく忙しくて手入れをしていない。いっそ短くしてしまおうか、と頭のすみで考えた。
「ミズ・リィ。残念ながらエリサ・ロランの情報は諦めた方が良さそうです。彼女がこの病院にいた形跡は全くないんですよ。まるで何者かが抹消したかのようなきれいさです。残っているのはわずかに人の記憶だけで、それももう曖昧です。彼女の名字がロランだったかどうかも覚えていない」
院長のバッカードは悪びれる様子もなくそう報告した。
「彼女の退職理由は何なの?」
トウが尋ねると、バッカードは肩をすくめた。
「退職した痕跡もないんですよ」
バッカードはお手上げだというように言った。
「エリサ・ロランという人間はいた…… かもしれない。でも、いつここに入って、いつここを辞めたのか、それが全く記録としてないのです」
「そんなばかなこと……」
トウは初めて敗北を感じた。組織の中のすみずみまで すべて自分の手中にあるものと思っていた。 それが10数年前に何ものかによって破られていたのだ。
いや、もしかしたらずっとずっとそれよりも前なのかもしれない。
エリサ・ロランの消息は意図して誰かが抹消している。直感的にそう思った。
「じゃあ…… 直接この夫婦に聞くしかないわね」
トウは机の上をコツコツと指で叩いた。
その爪の先にはセレスの叔母フェイと叔父のケヴィンの写真があった。

 セレスの腕の痛みは2日続いた。
しかしブロードの演習は容赦がなく、腕の痛みが少しラクになった頃には足の筋が、足がよくなった頃には腹筋が、と次々にいろんな部分を傷めるので、結局最初の腕の痛みなどたいしたことではないと思うようになっていた。
ユージーはブロードの演習のあと少し休憩をとってから30分セレスを指導した。
演習の時に問題の大きい部分はさらに時間をとって一時間つき合うこともあった。
セレスはそんなユージーに戸惑いながら、どうしても認めざるをえないことがあることに気がついた。
ユージーの指導はとてもていねいなのだ。
もっといえば、ケイナよりも分かりやすくて親切だった。
ケイナのトレーニングは決して雑ではなかったが、一度教えて分からない部分はもう知らない、という態度がありありと見えていた。
できるようになるまでの責任感など彼にはなく、ただ、自分に役目を課せられているから必要なことを教えているだけ、という無機質なものだったのだ。
それでもセレスはまだ目一杯ケイナに見てもらっていたはずだ。
一緒にトレーニングをしていたジュディやトリルはもっと不満があったに違いない。
ハイラインへの試験を受けることが決まったあとのケイナのことを思い出すと、セレスは初めてジュディの自分への憎しみの一端を知ったような気がした。できるようになりたいと思う気持ちはみんな同じなのに、ケイナは明らかに自分とほかのふたりとの態度を違えていたのだ。
おれ…… 何も見ていなかったんだ……
セレスはそのことがショックだった。
ユージーが自分とケイナのことを知っていて彼が本当にケイナを憎んでいるなら、普通ここまで丁寧に指導はしてくれないだろう。
分からなければ言葉を変え、それでも分からなければ分かるまで、何度も何度もできるようになるまでつき合ってくれるユージーを見ているうちにセレスは知らず知らずのうちに彼への警戒心が消え、それが尊敬の気持ちに変わっていくのをどうすることもできなかった。
「体の軸がどうしてもアンバランスだな。左足のねんざは治ったか」
その日もユージーはセレスにタオルを放ってやりながら言った。
「ええ……」
セレスは汗を拭いながら答えた。
「つらいか?」
ユージーはかすかに笑みを浮かべて「点」をケースに入れながら言った。セレスはかぶりを振った。
「いえ…… 最初の頃は辛かったけど…… 今はそうでもない」
ユージーは顔をあげた。
「痛みのあるようなところは絶対にそのままにするなよ。こじらせるとあとに響く」
「はい」
セレスはユージーから目をそらせて答えた。
ユージーはそんなセレスを少し見つめたあと「点」のケースを取り上げた。
「おまえは才能があるよ。言わなかったけど、一番最初の訓練のときあの的の速さはおれが受けたときよりだいぶん速かったんだ」
「え?」
セレスは思わずユージーを見た。ユージーは笑った。
「おまえはたぶんあと2年くらいでここを出るんじゃないか。ここを出たらおまえの兄さんのように中央の部隊に志願するのか?」
「まだ…… 分からないです」
セレスは戸惑いながら答えた。
確かにラインを志望したときは兄のあとを追う気持ちもかすかにあったかもしれない。しかし、半分以上はとにかくケイナに追いつきたいというそれだけだ。
「あなたはどうするんですか」
セレスは尋ねた。その言葉にユージーの目に一瞬翳りがさしたようにセレスは思った。
しかし彼がセレスにその目を向けたときには消えていた。
「さぁな…… おれが何を志願しようとしたって周りはいやでもおれをカートの息子として同じ道に進ませようとするだろうから」
カートと同じ道? ああ、カート指令官と同じ方向ということか……
ユージーはセレスを一瞥するとセレスに背を向けた。
「自分を大切にしろよ」
彼は最後にそう言ってトレーニングルームをあとにした。
セレスは少し驚いてその姿を見送った。
自分を大切に? 思いがけない言葉だった。
セレスはのろのろと自分の「点」をケースに入れると、 疲れ切った体をひきずるようにして射撃室をあとにした。
そのセレスの後ろ姿を見送りながら柱の影でアシュアはカインに言った。
「ユージーはいるだろ?」
カインは青ざめた顔でうなずいた。
「ああ、見えたよ……」
カインは真っ赤に充血した目をアシュアに向けた。
「ユージーの姿はぼやけた黒い影だった」
「…………」
アシュアは絶句した。自分にはちゃんとユージーが見えていたからだ。
「あんな影なら見えるはずもない。ぼくは、ユージーの姿を見ることができない……。どうしてなんだろう」
カインはメガネをとって目をこすった。
「どうして、ぼくは見えないんだ……」
「と、とりあえず、部屋に戻ろう…… あいつもメシ食いに行ったみたいだし」
アシュアの言葉にカインはうなずいた。
ふたりは知らなかった。
カインとアシュアの読み通りにセレスがダイニングに直行していれば彼の運命も変わっていたかもしれなかった。
カインがユージーの姿を見ていなければ、カインも察知できたかもしれなかった。
そして、そのことが、これまで知らなかったケイナを知ることになろうとは思いもしなかった。

 セレスはのろのろと廊下を歩いていた。
体中くたくただった。まるでミルクをかけられたパンになった気分だ。
食欲は全くなかった。だが、食べないと体が続かない。
せめてシャワーを浴びてから食事をしようと思い、セレスは自室に向かって歩き始めた。
ダイニングと反対側の倉庫が並ぶ廊下にさしかかったとき、セレスはふと異様な気配を背後に感じた。
すばやく身を守るには体力を消耗しすぎていた。
次の瞬間、セレスはものすごい力で誰かに体をはがいじめにされ、口にタオルを詰め込まれていた。
『苦しい……!』
必死になって体の自由を取り戻そうとしたが相手の力はすさまじいものだった。
あっという間に近くの倉庫の中に引きずり込まれていくのを感じた。
倉庫の中は暗くいやな匂いがした。
「早く!」
誰かが怒鳴った。
どこかで聞いた声のような気がしたが思い出せなかった。
いったい何人いるのか。いったい何をしようというのか。
床に乱暴に叩きつけられたかと思うとうつぶせに体を床におしつけられ、両手首を誰かの足が踏んだ。
靴底に刻みつけられている鋲が皮膚に突き刺さり、鋭い痛みが走ってセレスは呻いた。
その次の瞬間、セレスの脳裏にケイナの顔が浮かんだ。
そして彼らがこれから自分に何をしようとしているのかを悟った。
「こんなひよっこにあいつみたいなバカぢからはねえ! 早くやっちまえ!」
「利き腕をつぶすか?」
『やめろ!!!』
セレスは大声で叫ぼうとしたが、 口一杯に詰め込まれた臭い匂いのするタオルで息をするのがやっとだった。
「こいつにはそこまでする必要はねえよ!」
怒鳴り声が聞こえた。誰かが馬乗りになり、ものすごい勢いでトレーニングウェアを破いた。
セレスは必死になって体の自由を取り戻そうともがいたが、床に踏み付けられた両腕は激しい痛みとともにぴくりとも動かない。
『こいつら、ケイナを襲った奴らだ……!』
3人か、4人か、どんなに頑張ってもひとまわりも身体の大きいハイライン生を相手にするのは無理だった。
『いったい何ができる。ハイラインとロウラインの違いだぞ……』
ケイナの言葉が頭の中で響いた。悔しさと羞恥心で視界が滲んだ。
「さっさとやっちまえ!」
セレスは声にならない叫びをあげた。自分が発狂するのではないかと思うほどパニックに陥った。
『こいつら必ず殺してやる……!』
体中を怒りと痛みが駆け巡る。あのとき、きっとケイナが感じたのと同じ苦しみだ。
「動くんじゃねぇ!」
怒鳴り声とともに、セレスは右顎に衝撃を感じた。
誰かが蹴ったのだ。
ガキリと自分の骨の砕ける音が聞こえたように思えた。
そしてそれと同時にふうっと体が軽くなった。両手首を押さえ付けていた足もなくなった。
セレスは燃えるように熱を感じる顔を巡らせた。