13-5 壊れた心

「セレス……!」
ケイナは勢いよくドアを開けた。セレスは洗面台に顔を突っ込んでいた。
トニが小さな悲鳴をあげた。洗面台には吐瀉物にまじって血が点々と落ちていたからだ。
「ケイナ……?」
セレスは喘ぎながら振り向いた。トニが目を大きく見開いているのが見えた。
「ぼ、ぼく、教官に知らせてくる……!」
「行くな……!」
セレスは叫んだ。と同時にぐらりと体が傾いたので、ケイナは慌てて腕を伸ばしてセレスの体を受け止めた。
「トニ……! 行くな!」
セレスはケイナにしがみつきながら弱々しく怒鳴った。トニは怯えたような顔をケイナに向けた。
「とにかくセレスをベッドに運ぶんだ」
ケイナはトニに言った。トニは震えながらこくこくとうなずくと、ケイナと一緒にセレスをベッドに運んだ。
「ふたりとも、頼むよ…… 誰にも言わないで」
ベッドに横になったセレスの顔は土気色になっていた。
「セレス、きみ。病気だよ。ちゃんと診てもらわないと死んじゃうよ」
トニは泣き出しそうな声で言った。
「トニ、あと二週間なんだ…… 頼むよ。このことは誰にも言っちゃだめだ…… アルにも、誰にも、言わないで……」
「セレス……」
トニはおろおろとしてケイナを見た。ケイナはトニを落ち着かせるようにその肩をぐっと掴んだ。
「おれが責任持つから。セレスの言うこと聞いてやってくれ」
トニは目をしばたたせながらうなずいた。
ケイナはバスルームに向かった。吐瀉物をそのままにはしておけない。
勢い良く水を流しながら、ふと、視界の片隅にひっかかったある物に気づいた。
頭の中で警報がけたたましく鳴り響いた。
洗面台の上に小さな扉が四つ並んでいた。
左からケイナ、ジュディ、セレス、トニ。
ケイナは昔からこの小さな物入れは使っていなかった。直接口に入れたりするものは絶対に他人が触れられるような場所には置かなかった。
そうだ。
どうしてそれに気づかなかったのだろう。
ケイナはセレスの扉を開けた。中には小さな歯磨きのチューブと、そして歯ブラシが入っていた。
ケイナはセレスの歯ブラシを取り出した。
「見つけた……」
彼はつぶやいた。

カインはロウラインの部屋を出てハイラインの自室で手のひらに乗る程の小さな黒いケースを取り出すと、自分のデスクのコンピュータに接続してキーボードを叩いた。
これを使うとラインの通信室を経由せず自室で外と交信できる。形跡も残さない。
もちろんそれはラインの中では規約違反だが、トウとの連絡もずっとこれで行っていた。
キイを叩いてしばらく待つと、画面に真っ白な髪の小柄な老人が現れた。
「やあ、カイン。待たせてすまなかったね」
老人はにこやかに笑って言った。
「ドクター・レイ。すみません、無理を申し上げました」
「いやなに、たいしたことではないよ。ここのところヒマでな。患者のほとんどは息子と嫁が診とるから退屈でしようがなかったところだ。ぼっちゃんもたまには風邪でもひいてくれんかな」
「ぼくはあいにく地球のウイルスには強くできているらしいので…… それにドクターの専門は脳外科でしょう。 ……マリアは元気ですか?」
カインは笑って言った。
マリアはレイの妻だ。レイより10歳若い、大柄できびきびとよく動く快活な女性だった。
彼女は主に小児科が専門だったが、最近はレイに変わって内科専門の息子ジュナと診察をしているらしい。
「元気も元気。相変わらず口達者で気性が激しいよ。おっと、本題に入ろう」
レイはそう言うと画面の向こうで紙を取り上げた。
「あとでデータを送ってさしあげるが、この患者はナンバー88系の違法ドラッグに冒されとるな」
「ナンバー88……」
カインはつぶやいた。やはりセレスは薬物中毒だったのか。
「ナンバー88はたいしたもんじゃないよ。昔、リィ・メディケイティッドで輸入していた金星系ハーブだ。ほかの強いハーブとミックスされとらんようだからやめてしまえばリターンはない」
レイは紙を近づけたり遠ざけたりしながら言った。老眼がかなりすすんでいるのだろう。
「基本的には興奮剤的なものだ。効いている間は非常に高揚感があり気持ちも朗らかになる。しかし食欲減退や体重の減少、血流の悪化といった副作用がある。効果が薄れてくると、手足の痺れや吐き気、目眩、頭痛といった症状も起こる。昔女性がダイエットに使ったことがあったんだが遺伝子を傷つける恐れがあるのと、血流とホルモンのバランスを崩して無月経になる可能性が高いんでな、二十年前に使用禁止になっとる」
レイは紙を置いて、少し咳をした。
「ぼっちゃんは知らないかもしれないが、違法ドラッグに指定されているものの大半はもともとリィが輸入していたのが始まりだというものが多いんだよ。だから違法指定にするのもすばやいもんだ」
「彼は血を少し吐いたらしいんですが」
カインは言った。セレスが倒れたあとにケイナが知らせてきたのだ。
「それは88ハーブとは関係ないだろう」
レイは言った。
「あんまり食事をとってなかったんじゃないのかね。胃が荒れたんだろうな。あとで胃薬を届けるよ」
カインはほっと息を吐いた。
「それで、ハーブの毒性を抜くのはどうしたらいいんですか」
レイは笑った。
「ほっときなさい。口にしさえしなければ二日で抜ける。ちょっと下痢をするかもしれんがね」
「はあ……」
カインはつぶやいた。少し拍子ぬけをしていた。自分の目に見えていたものはもっと深刻だったからだ。
「まあ、今は88ハーブごときにそんな辛い思いをしなくてもいいように、すばやく薬効を消す中和剤があるよ。胃薬と一緒に一時間後に届けさせる。所長経由でリィの名前を使えばきみの手許に確実に届くだろう」
「助かります。ドクター」
カインは礼を言った。
「それにしても女の子のダイエット志向がまた復活したのかね。30年前は全く逆だったよ。太ったほうがよかった。生命力が弱い時代になると人間は痩せていく志向になるのかねえ。せっかく『ライン』に入ってまでばかなことをする」
「は?」
カインはびっくりした。
「何のことですか?」
「なんのことって…… ダイエットなんだろう?」
レイは怪訝な顔をした。
「セレスは…… 男ですよ。」
カインは妙な不安を覚えながら言った。
「男?」
レイは目を細めて持っていた書類をめくった。
「そんなはずはない。この患者の性染色体はXXだ。ドラッグの中には遺伝子に入り込む悪いやつもいるから検査したんだよ」
「そんなばかな…… セレスは…… 男です」
カインは血の気が下がっていくのを感じながら言った。レイの表情が堅くなった。
「表現体は男性なのかね?」
「え…… ええ、たぶん……」
表現体がどうこうと言われてもセレスの裸体など見た事もないのだから、見た目で答えるしかない。確かに標準の体型よりは華奢だが、セレスを女性と思うのは明らかに無理があった。
「『ライン』に入るときには遺伝子レベルで性別チェックは受けているはずです。女性を男性と間違えるはずはない」
カインは言った。
「そんなばかな話があるもんかね。彼女の……いや、彼か? いったいどんな遺伝子構造をしているというんだ」
レイはつぶやいた。
「ドクター……」
カインは思わず声を荒げた。
「そのデータをぼくに送ってください。そしてどうか、このことは他言しないでもらいたい」
「それはもちろんだが……」
レイは答えた。
「正規のルートを踏まずにわしのところに依頼してきた時からそれは分かっておった。しかし、本来は女性なのに、そのまま男性として『ライン』にいつづけることは難しいぞ。本人が自分を男と認識しているならなおさらだ。それに、両性具有種はリィに知られると、彼の一生はだいなしになるぞ」
「分かっています」
カインは震える声をどうすることもできなかった。レイは言い募った。
「できればきちんと遺伝子検査をしたほうがいい。もし、仮にだぞ、環境の変化で性別がころころ変わるとしたら、どっちかにおさめたほうが本人のためでもある。『ライン』に入る前には男で、『ライン』に入ってから女になったのだとしたら、その可能性があるだろう」
レイの言葉にカインはうなずいた。
「検討します…… ドクター、どうもありがとう。感謝します」
「じゃあ、あとで薬を届けさせるからな」
レイはそう言うと画面から消えた。
カインは震える手で通信の接続を切った。目の前に不快な光がちらちらと点滅した。
「セレスが…… 両性具有…… これか…… 見えていたものは」
彼はコンピューターの前に突っ伏した。