10-4 暴走

 しばらくあたりは静寂に包まれていた。
ケイナはゆっくりと顔をあげた。男の歓喜に満ちた顔がわずか数メートル先に見えた。
「お兄ちゃん……」
腕の中で少女が怯えた声を出した。
「よく聞いて」
ケイナは男を油断なく見つめながら言った。
「合図したらママのところに走るんだ。ママがどこにいるか分かる?」
「うん…… 柱のところにいる」
「まっすぐに走れ。何があっても立ち止まるなよ」
「うん……」
ケイナは男を睨みつけながら立ち上がった。
「そんな怖い顔をするな。もっと泣いてくれなければ困る」
男は言った。落ち窪んだ目はどろんと濁り、無精髭の奥の口が歪んでいる。
「行け!」
ケイナは叫んだ。少女はまっしぐらに走り始めた。
男の銃が少女を狙おうとする前にケイナは男に飛びかかっていた。爆音が響いたが、ケイナは銃口を力づくで天井に向けていた。
 ハルドはようやく現場に駆け付けると、すばやく先に配置していた警備兵たちに群集を安全な場所に誘導するように指示をした。そしてケイナに走り寄ろうとするセレスの腕を慌てて掴んだ。
「何をする気だ!」
「ケイナが……!」
セレスは喚いた。ケイナの右耳のあたりからおびただしい量の真っ赤な血が流れている。
「おまえに何ができる!」
ハルドは弟の腕を掴みながらひとりの兵士から銃を受け取った。ほかの兵士たちに合図を送るのと、男がケイナを力まかせに撥ね除け、床に転がったケイナの眉間にぴったりと銃口を押しつけるのが同じだった。
「ケイナ!」
セレスは悲痛な声をあげた。
「泣いて命ごいをしろ」
男は低い声でケイナに言った。ケイナは無言で男の顔を睨み返した。
「薬をやってるな……」
ハルドは男のどす黒い顔を見てつぶやいた。
「薬?」
セレスはびっくりして兄を見上げたが、ハルドはそれには答えなかった。
「銃を捨てろ!」
ハルドは男に向かって怒鳴った。しかし男はにやりと笑っただけで相変わらずケイナに狙いをつけている。
周囲が銃を構えた兵士に取り囲まれているのを何とも思っていないようだ。
「撃てるもんなら撃ってみろ」
男はケイナに銃口をつきつけたまま、身をかがめてその肩を抱き寄せるように腕を回した。
「なんで撃たないのさ!」
セレスはいらだたしそうに兄に怒鳴った。
「あと1分したら狙撃班が来る。それまで待つんだ!」
ハルドは言った。
「きれいな顔をしたお兄ちゃんじゃねえか」
男は饐えた匂いのする息を吐きながらケイナに言った。
男はケイナの首に銃口をつきつけると、ひげ面の顔をケイナに近づけた。
ケイナの肩に回した腕でケイナの頭をおさえ、片方の手に持った銃はケイナの首におしつけたまま、ケイナの唇に自分の唇を重ね合わせた。
ハルドとセレスは呆然としてそれを見つめた。
しかしその次の光景はもっと信じられなかった。
ケイナの左手がすばやく銃口を掴んだかと思うと、あっという間に銃と一緒に男の腕が自らの肩から背の方に不自然に折り曲げられていた。
男の叫び声が聞こえた。
男の口からは真っ赤な血が吹き出し、立ち上がったケイナは男が持っていた銃を握り締めていた。
セレスはその銃が彼の左手にあるのを見た。
「下衆野郎……!」
ケイナは銃を持っていない右手の甲で口を拭い、床に血を吐き出した。
ケイナは男のくちびるか舌を嚼んだのだ。
男は身をよじって立ち上がろうとしたがケイナの手に渡った自分の銃が自分に向けられているのを知って凍り付いた。
ハルドが手をあげたので、警備兵たちが男を捕獲するために走り出そうとした。 しかしそれに向かって叫ぶケイナの声が響いた。
「来るな! この下衆野郎はおれが殺す! 近づくとおまえらも撃つ!」
「ばかな……!」
ハルドはかすれた声でうめき、セレスが再び走り出そうとしたので慌ててその腕を掴んだ。
「ケイナ! ダメだ……!」
セレスが叫ぶのと、ケイナがぴたりと男に狙いを定めるのが同時だった。
どうする。このままだとケイナを撃たなくてはならない。あの表情は本気だ。アパートで見ていた彼の顔ではない。あの顔は……
ハルドはぞっとした。あの顔は薬物中毒の男よりもっと邪悪だ。
「ケイナは左手で銃を持ってる…… もう、自分の意識で動いてないんだ」
ハルドは呻くように言うセレスの顔を思わず見た。
「なに?」
「ケイナの耳からピアスが取れてる。ケイナはこっちの世界にいないんだ・・・!」
セレスは兄にすがりつくように叫んだ。ハルドには弟の言っていることがさっぱり分からない。
再びケイナに目を向けた時、ひとつの影が男に突進するのを見た。
それは信じられないすばやさだった。
影が男をケイナの構える銃の射程範囲からはじき飛ばすとの、ケイナが撃ったのとが同時だった。
男がいたはずの床に大きな穴があいた。
影が何者なのか確かめようとする前にハルドは弟が走り出したことに気づいた。今度は腕を掴み損ねた。
「終わりだ! ケイナ!」
男の体を組み伏せながら影が叫んだ。真っ赤な燃えるような髪の少年だった。
セレスはそれがアシュア・セスだと気づいた。
「終わりだ、ケイナ。銃をおろせ」
アシュアはゆっくりと言ったがケイナは何の反応も示さなかった。
「ケイナ、おれだ、アシュアだよ。銃をおろせ」
静かに注意深く語りかけながらアシュアが片手を差し伸べても、ケイナは全く表情を変えない。
「ケイナ! アシュアを撃つな!」
セレスはケイナの背後から叫んだ。
「アシュアだよ! 分かんないのかよ!」
セレスは祈るような気持ちだった。ここでアシュアを撃ってしまったら、彼は決してこっちの世界には戻ってこないだろう。
セレスは意を決してケイナに飛びかろうとした。しかし、ケイナに手を触れる瞬間に彼は振り向き、持っていた銃の銃身で思いきり殴られそうになった。
すんでのところで身を伏せたので、銃身はセレスの緑の髪をかすって空を切った。 しかしそのまま銃口はぴたりとセレスの額に止まった。
「ばかやろう……」
ハルドは自分の銃の照準をケイナに合わせた。
もう、どうしようもない。
照準の先に見えるケイナの姿が滲んでぶれた。それで初めて自分の手が震えていることに気がついた。
これまでたくさんいろんな事件に出会って来たが、こんなことは初めての経験だった。
「ケイナ…… こっちに戻ってきてくれよ……」
セレスは震える声で言った。やはりケイナの表情は変わらなかった。
アシュアは隙のないケイナの背後でじりじりしている。 下手な動きをするとセレスの頭をケイナは撃ち抜いてしまう。
「ケイナ…… おれが分からない? おれのこと、覚えてない?」
セレスは懇願するように言った。
「お願い! おれのこと、思い出してよ!!」
セレスは叫んだ。
「ケイナ! おれの声を聞いてよ!!」
ケイナの表情にかすかな変化が見えた。アシュアはそれを見逃さなかった。
次の瞬間、アシュアの肘がケイナ後頭部に飛び、ケイナは銃を取り落とすとゆっくりと倒れた。
床に体を打ちつける前にアシュアは彼の体を抱きかかえた。
セレスはそのまま息をきらして床に座り込んだ。
汗と涙で顔中ぐしゃぐしゃだった。声にならない呻きとともに服の袖で顔を拭った。
ハルドは警備兵たちに引き摺られていく男を見送ったあと床に落ちた銃を拾い、意識を失ったケイナを抱きかかえるアシュアのそばに歩み寄った。
「クレイ指揮官、すみません。勝手なことをして……」
アシュアはハルドを見上げて言った。
「きみは誰だ」
「アシュア・セスです。ケイナとはラインで同期です」
「同期……」
ハルドはつぶやいた。あの動きはライン生の動きじゃない。そう思ったが口には出さなかった。
「ケイナの耳が半分ないよ……」
セレスは血に染まったケイナの顔を覗き込み、ハルドに訴えた。
ハルドは黙って口を引き結んだ。
慌ただしい足音と共に担架が運ばれる。
「痛みなんて、ほとんど感じてなかっただろうよ」
アシュアは言った。
そして、
「戻ってくるかな……」
と、つぶやいた。