10-1 暴走

 翌日ケイナは目が醒めた時、一瞬自分がどこにいるか分からなかった。
意識がはっきりしてくると信じられないくらい体が軽くなっていることに気づいた。
「ああ、そうか……」
食事をしたんだ……
ハルドとしばらく話をして、そして眠った。昨日からいったい何時間寝たんだか。体が軽くなるはずだ。
 ベッドを抜け出すとそっとドアを開けた。リビングに行くとハルドがひとりでコーヒーを飲んでいた。
「おはよう。よく眠れたかい」
ケイナの姿に気づいてハルドは言った。ケイナはうなずいた。
ハルドは笑みを浮かべるとコーヒーを新しいカップに入れてケイナにおしやった。ハルドもセレスもコーヒーが大好きらしい。
壁のモニターに映っているニュース映像の時刻はまだ六時過ぎだ。
それでも『ライン』での生活を考えるとかなりの寝坊だ。
ソファに目を向けると寝ていたはずのセレスの姿がなかった。
「セレスは……?」
「まだ寝てるよ」
決まってるじゃないか、というようにハルドは笑った。
「ぼくが五時の報告を受けるために起きた時にはソファから落ちて床に寝ていたから、あっちの寝室に運んでいった。たぶんあと二、三時間は寝るだろうな」
ケイナはくすりと笑ってコーヒーを飲んだ。熱かったがおいしいと思った。そう思う自分に気づいて少し驚いた。
嬉しい、楽しい、おいしい、まずい、好き、嫌い・・・そういうことをしみじみと感じたことなど、もうずいぶん長い間なかったような気がする。
「ハラが減ったらキッチンで好きなものをプログラムして食べていいから。セルフサービスだ」
ハルドの言葉にケイナは再びうなずいた。
ハルドは昔会ったと言ったが、ケイナにとってハルド・クレイは初対面も同然だった。それなのに、目の前に座っている彼には少しも警戒する気持ちにならない。
初めて会って話をする人間にこんなに気負わずにいた記憶はなかった。
今でこそそばにいることが普通になっているカインとアシュアだって、最初はうっとうしいと思ったものだ。
もっとも、彼らは出会ったときから何か思惑があったからというのもあったが。
ほかの人と目の前のこの人とは何が違うんだろう・・・。
「もう起きてたの?」
声がしたので振り向くと、セレスが眠そうな顔でダイニングの入り口に立っていた。
「そりゃこっちのセリフだ。えらく早く起きたな」
ハルドが言った。
「兄さんのベッド硬くて……」
セレスはそう言ってケイナのそばの椅子に座り、テーブルの上のポットを持ち上げてカップにコーヒーを注いだ。
緑色の髪が四方八方に突っ立っている。よほどひどい寝相だったのだろう。
「クソ重いおまえを抱えてあっちまで行ったんだぞ。ありがたいと思え」
ハルドはコーヒーを飲んでセレスを睨んだ。セレスはカップを口につけて「あっちっちっち・・・」と顔をしかめた。
ケイナはただ黙ってふたりのやりとりを聞いていた。
義理の兄であるユージーと、顔も合わさず話をしなくなって何年になるだろう。
ユージーとの生活はジュニア・スクール時代から全く別になっていた。
義父がほとんど家にいないので、食事も別々に自分の部屋でとっていたのだ。
 ジュニア・スクールのときからいつもぴりぴりと神経を尖らせて生活していた。
階段を前にすれば突き飛ばされて転げ落ちることを考えた。屋外授業は足を挫く心配をした。
カバンの中に入った刃物で手を切らない注意をした。そう、カバンはいくつ替えただろう。
テキストとともに何度も何度も切り刻まれた。そのたびに新しいものを買わなければならなかった。
『ライン』ではもっとすさんだ生活だった。
殴られたり故意に怪我をさせられたことなんか数えきれない。眠っているあいだでさえ人の足音にびくびくした。
結局、2年前のあのときが一番最悪のできごとだったけれど。
顔も見ない、声もかわさないのに、みんな兄が自分を憎んでいると言う。
18歳になればおれなんかいなくなるのに、どうして?
「叔母さんが今日、明日あたりで一度連絡しろって言ってたぞ」
ハルドがセレスに言った。ハルドの声にケイナははっと現実に戻った。
「四ヶ月間一度も連絡がないって嘆いていた。体を壊してるんじゃないかとやきもきしてる。ぼくの時にはそんな心配しなかったくせにって言うと笑ってたけど」
「連絡なんかするゆとりなかったよ」
セレスは仏頂面で言った。
「そう言っといた」
ハルドはそう言うとモニターに目を移してニュースに耳を傾けた。
「ゆうべはよく眠れた?」
セレスはケイナに目を向けて言った。ケイナはうなずいた。
「自分がいつ寝入ったのか、どんな夢を見たのか覚えてないよ」
「良かった。顔色が昨日よりもずっといいよ」
ケイナは黙ってコーヒーを飲んだ。
セレスはケイナの表情がいつもよりずっと落ち着いているので安心した。 自分の家にいてくつろいでくれていることが嬉しかった。
「朝メシを早く食ってシャワーを浴びてしまえよ。エアポートに連れて行ってやるから」
ハルドがふたりに言った。
「ほんと?」
ハルドの言葉にセレスが嬉しそうな顔をした。
「エアポートの管制室とセキュリティ室の見学と三人乗りの小型機を予約しておいた。ぼくが一緒にいなくちゃ許可のおりないツアーだよ。感謝しろよ」
ハルドは得意そうに言ったが、セレスはすでにそれを聞いていなかった。そそくさと立ち上がると朝食の用意をしにダイニングに行ってしまったのだ。
「ケイナ、食べた? おれと同じのでいい?」
うん、と答える前にハルドの視線に気づいた。
「悪いね。つきあってもらうよ」
ハルドはケイナに言った。ケイナは小さく笑った。
ここにいると何でも素直に受け入れられそうな気がした。幼い頃ノマドたちの中にいた時をふと思い出した。