09-6 休暇

 シャワーから出てきた時、ケイナはいつもの調子を取り戻していた。
「落ち着いたかい」
ハルドが紺色のシャツと薄いカーキ色のズボンというラフな格好で戻ってきてケイナに言った。
「すみません」
ケイナは言った。
「気にしなくてもいいよ。ちょっとびっくりしたけどね」
ハルドは笑いながらケイナに手を差し出した。
「ハルド・クレイだ。セレスが世話になるね。よろしく頼むよ」
「ケイナ・カートです」
ケイナはためらいがちにハルドの手を握り返しながら答えた。
「さっき思い出したんだけど、きみには一度会っているよ」
ハルドは少し冷えてしまったコーヒーを飲んで言った。ケイナは無言だった。
「七年くらい前かな…… カート指揮官の家に呼ばれたことがあるんだ。きみは覚えていないかもしれないね。ぼくもラインを卒業したての頃だったし」
ハルドは探るような目をしたが、やはりケイナは何も言わなかった。
「兄さん、メシ食いに行こう。おれ、ハラ減っちゃった。昼食べてないんだ」
セレスが横から口を出した。
「ケイナもハラ減ってるだろ」
ケイナは困惑したような表情になった。ハルドは笑って立ち上がった。
「よし、じゃあ、うまい店に連れていってやるよ」
「やったぜ!」
セレスは叫んだ。そして無理矢理ケイナの腕を引っ張った。
しかたなくケイナは立ち上がった。

 ハルドは中央塔から持ってきた四人乗り用の乗用車プラニカにセレスとケイナを乗せ、エアポートの近くにある小さな店にふたりを連れて行った。
店の隅の席に座り、運ばれて来た料理はアパートでプログラムされたメニューや『ライン』で食べる食事に比べればはるかに豪華で美味しいはずだったが、大はしゃぎなのはセレスだけでケイナは黙って皿をつついていた。
 それでも彼の表情は不快というわけでもなさそうだった。
ハルドもセレスもケイナの様子には頓着せずに食事をしながら話をしていたからかもしれない。
ほんのかすかではあったが、ふたりの会話を聞いていて笑みをこぼすこともあった。
 帰りのプラニカの中で、セレスは横に座ったケイナが時々ふっと眠りかけるのを見た。 一番最初に会ったときのケイナを思い出すと危ういほどの無防備さだ。
「もたれて眠っちゃってもいいよ」
セレスが言うと、ケイナはちらりとセレスを見て戸惑ったように目をそらせた。
 しかし、家に着くなりどったりとソファに倒れ込んで一分もたたないうちにいびきをかきはじめたのはセレスのほうだった。
「こんなところで寝るな!」
ハルドが頭をこづいたがセレスは目を覚まさなかった。しかなたくハルドは昼間ケイナが被っていた毛布を乱暴にかけた。
「きみも泊まっていけよ。セレスのベッドを使えばいいから」
ハルドは帰り支度をしようとしているケイナに言った。
「でも……」
ケイナは口籠った。
「明日の朝、目が覚めてきみがいないと分かったら、こいつは大騒ぎをするぞ」
セレスのほうを顎でしゃくって言うハルドの言葉にケイナは苦笑した。
「よかったら二、三日ゆっくりしていってくれないかな」
ハルドはキッチンに向かいながら言った。
「休暇中まで新入生の面倒を見させるようで申し訳ないんだが、セレスにつきあってやってくれないか。初めての休暇で何をしでかすか分からないから。ぼくも明日には帰ることになるだろうし」
ケイナはどう返事をすればいいのか迷った。迷っている自分が不思議だった。
普段なら即座に「ノー」と答えたいと思うだろう。
「よろしく」
キッチンから戻って来たハルドは両手に持ってきたカップのひとつをケイナに押しつけて笑った。
ケイナは無言で手渡されたカップを見つめた。コーヒーの香ばしい香りがする。
 おれは今までこういうとき、どうしていただろう。ケイナはぼんやり考えた。
こんな強引な事をされたら、まず間違いなくカップを床に叩きつけて部屋を出て行ってただろうな。
思いっきりむかついて。どうしてそれをしないんだろう。
「ケイナ」
ハルドが呼んだので、半ばぎょっとしてケイナは顔をあげた。
「そんなところに突っ立ってないで、こっちに座んな」
ハルドは苦笑して窓際のテーブル脇の椅子を指した。 セレスがソファを占領しているので座る場所はそこしかない。 ハルドは指した椅子の対面に座っていた。
ケイナが気乗りのしない様子で椅子に座るのを見てハルドはコーヒーをすすった。
「ハイライン生を家に連れて帰るなんて思いもしなかったよ。よくつき合ってくれたね」
ハルドの言葉にケイナは曖昧に笑みを浮かべた。
「左手は怪我を?」
ケイナの顔にさっと警戒の色が浮かんだ。
「セレスが言ったんですか?」
「いや、そうじゃない」
ハルドは笑った。
「さっきメシ食ってて気がついた。時々左手が出るのに、思い直して右手を使う時がある。 利き手は左だったんだな」
ケイナは少し驚いた。これまであの事件を知っている者以外は自分の利き手が左だったことは気づいたことはなかったのだ。
「まだ完治してないのか」
「いえ…… 荒っぽい使い方はできないけれど一応……」
ケイナは自分の手を見つめて答えた。
「左が自分の体の軸になっていたら、そうそう変えられないよ。 昼間ソファから跳ね起きた時も左手で殴りかかろうと身構えてた。まあ、相手を殴るときだけ右手にするように気をつけてればいいさ」
笑顔で言うハルドにケイナは黙っていた。一瞬、セレスを殴ったこともこの人は知っているんじゃないかと思った。
「あいつ、『ライン』に入るっていきなり言い出して、大変だったんだ」
ハルドはコーヒーをひとくち飲んでソファで眠りこけているセレスを見て言った。
「公開見学会のすぐあとだったかな。見学会に行ったことすらぼくは知らなかった。ものすごい形相で連絡してきたからびっくりしたよ」
見学会……
ケイナはセレスとバスケットをしたことを思い出した。
あのときの高揚感。こいつはおれに一番近い。そう思った。だが、本当に『ライン』に入ってくるかどうかは神のみぞ知るだった。華奢な体は『ライン』の軍科を志望するにはあまりにも無謀に思えたからだ。
「あんな必死な形相のセレスを見たのは久しぶりだよ。前は地球からぼくがコリュボスに転任することが決まったとき、一緒に行くと言って言い張ったんだ。きみを見る今のセレスもあれに似た感じがする」
ケイナは思わずハルドを見た。ハルドはソファのセレスに目を向けたままだ。
「いっぱいいろんなことは見えないしできないやつだから…… きみに負担がかからなければいいけれど。きみはいろいろ期待もされているだろうし」
「負担なんか……」
言いかけてケイナは口をつぐんだ。そして思い直して再び口を開いた。
「セレスにラインに来いと言ったのはおれです」
ハルドはケイナに目を向けた。ケイナはその目から逃れるように目を伏せた。
「すみません」
ハルドはしばらくケイナを見つめていたが、やがて笑みを浮かべた。
「そうか」
ハルドは言った。
「いい先輩に恵まれて安心したよ。ありがとう」
ケイナは無言でカップを見つめていた。
『ありがとう』
こんな言葉はもう何年も聞いたことがないように思えた。