09-2 休暇

 部屋を飛び出したはいいが、セレスはどこに行けばいいのか思い浮かばなかった。
体はもうくたくただった。泣き出したい気分だ。
『ケイナはレイプされてるんだ』
再び頭の中でジュディの言葉が響いた。
「だから?」
セレスは呻いた。
「だったらケイナはケイナじゃないの?」
立ち止まって唇を噛んだ。涙がこぼれそうな気がした。
「頭の中に冷たい風が吹くって…… ケイナはそう言ってたじゃないか」
『ライン』の不自由なところはハイライン生になって個室を与えられるまではひとりになれる場所がない、ということだった。 図書室なら静かだし少しは頭を冷やせるだろうか。今の時間なら人もいないかもしれない。そう思って廊下を横切って図書室に向かった。
部屋の前で中を覗いてみると夕食の時間なのでほとんど人はいなかった。
好都合だ。
空いていた隅の映像ライブラリーのブースにセレスは身を滑り込ませた。 ここなら周りからは隔離されている。椅子に座ってしまえば目の前はモニターだし、左右は壁に仕切られていた。
 何を見る気もなかったがやみくもに目の前のキイをたたき、ビデオをセレクトした。画面に景色らしいものが映ったが、やはり興味は湧かなかった。
ケイナは手を砕かれ、叫び声も出せずに皮膚を切り裂かれ、殴られ…… どれほど恐ろしかっただろう……
それをあんなふうに言うなんて許せない。
「ロウラインでもこんな課題が出るのかい?」
いきなり背後で声がしたので、ぎくりとしてセレスは振り向いた。黒髪の少年が立っていた。アルの部屋のルームリーダーのカイン・リィだ。よりにもよってこんなときにこんな苦手な人物に声をかけられた我が身を呪った。
「ここ、ハイラインになってから行く野外訓練場所だよ」
カインは笑って言った。セレスは慌てて画面に目をやった。 景色だと思っていたのは訓練場所の説明だったらしい。今はしかめ面の教官の顔が映っている。
「ルームメイトとケンカでもしたのか」
言い当てられてぎょっとしたが、セレスは彼から顔を背けたまま黙っていた。
「別に急ぎじゃないんなら、もう少し見栄えのいい別の映像を見せてあげるよ」
カインはそう言うとセレスの後ろから腕を伸ばしてキイを叩き、番号を入力した。 しばらくして出てきたのは海の映像だった。
「きれいだろ。地球の海だよ」
「地球の?」
セレスはびっくりした。地球の海なんてどこも灰色に濁っている。砂浜は腐った汚物の臭いがするし、どろんとした波が嘗めるように寄せては返すだけだ。
しかし、この映像では蒼くて透明な水の世界だ。じっと見つめていると夢の中に入っていきそうな気持ちになる。太陽の光も澄んでいた。
あのどろりとした水がどうすればこんなに美しく光るのだろう。
「100年前か150年前か、旧時代の映像だからだいぶん質は悪いけれど、このデータが一番きれいに残ってるやつかもしれないな」
カインは言った。
「海はすべての生物の根源だよ。きみもジュニア・スクールで教わったと思うけれど、海からすべては生まれた。今は人工でしか増やせない木々もだ。その木々は水がなければ生きられない。緑は大きくなって大気を清浄化させ、それが海の蒼さを造るんだ」
「カインさんはロマンチスト? それとも生物学者志望?」
セレスは言った。
「ラインの軍科生らしくないよ」
それを聞いて、カインはかすかに声をたてて笑った。
「ぼくは地球の血が半分しか混じってないんだ。半分はアライドという星で。ぼくは生まれてから一度もアライドに行っていないけれど、映像で見たり調べたりした。いろいろ調べてると地球のように美しい星は本当に少ないっていうことがよく分かったよ。汚染された星でも、ぼくはこの星にいることを誇りに思うし、ぼくらの使命はこの美しさを取り戻すことかもしれない」
「じゃあ、どうしてラインの軍科に?」
セレスが尋ねるとカインはセレスを見て眉を吊り上げた。
「ぼくは母の意向に背くように教育されていない」
「お母さんの希望だったの?」
セレスはびっくりした。カインは笑みを浮かべた。
「母の…… というより(家)の意思と言ったほうがいいのかな。そういう家柄なんだよ。ぼくは跡取りだから、それには背けない」
カインはそう言って再び腕を伸ばすとキイを叩いた。別のアングルの海の映像が映し出された。カメラが海の中に潜り込んでいる。見渡す限りの蒼い世界だった。
セレスは映像を見つめた。海の中ってきれいだ。
「きれいだろ。この色、ケイナの目の色によく似てないか」
「ケイナの……」
セレスはつぶやいた。
本当だった。光の加減で群青色や藍色やコバルトブルーに見えるケイナの瞳はこの海の色そっくりだった。そして、セレスはふともうひとり同じ目の色を持つ人間を思い出した。
兄だ。兄が同じ色の目をしている。いままでどうして気づかなかったのだろう……
ケイナに周りがびっくりするくらい気負いもなく話せたのは彼が兄と同じ目を持っていたからだったのかもしれない。
ラインに入って四ヶ月、セレスは一度も兄と連絡をとっていなかった。ハルド兄さんは今頃どうしているだろう。きっと変わらず多忙な毎日を送っているに違いない。
セレスはぼんやりとそんなことを考えた。
「噂など気にするな」
カインの言葉にはっと我に返った。
「あんなくだらない噂、気に病むだけ馬鹿馬鹿しいさ。ケイナみたいに堂々としていろ」
セレスは一瞬カインを振り向いたが、目を伏せた。
そうだ。自分の耳に入った噂がケイナの耳に入らないはずがない。
ケイナはこんなことにいちいち動揺したりはしないだろう。
「それに、あの時はぼくらもきみたちのそばにいた。もちろんケイナはそれを知ってる」
「え?」
セレスは仰天した。
「そばにいた? ぼくら……?」
カインは笑みを浮かべた。
「じゃあ、ずっと見てたってこと……?」
「そう。部屋を飛び出してからきみが殴られてそのあともずっと」
「趣味悪い」
セレスが言ったので、カインは肩をすくめた。
「ケイナはひとりにはできない。いつもどちらかが彼のそばにいる。もうひとりはアシュア・セスだ。バッガスとケンカした赤毛の奴だよ。ぼくらは同じ訓練グループだしね」
「二年前の事件があったから?」
セレスはおそるおそる尋ねた。カインの顔にかすかに不快感が浮かんだ。
「それもある。彼は自分で自分を身を守れるけれど、それには限界もある」
この人とアシュア・セスがあのときケイナを助けた。本当のことを知っているのは、ケイナとカインとアシュア…… セレスはカインの顔を見つめた。小さなメガネの奥の黒い切れ長の目はやはり怖かった。
「ケイナが自分からあの事件のことを当事者じゃない人間に話したのは初めてだよ。これまで彼は自分のことに精一杯で人のことなんかあんまり考えなかった。特に新入生のことなんか、彼にとっちゃいないも同然だったろうね。だけど、きみに出会ってからケイナは変わったよ。ぼくはできればきみにケイナのいい友人になってもらいたいと思ってる」
セレスはびっくりしてカインを見た。
「ケイナは感情抑制装置を外すとまだダメなんだ。だけど、きみと話すとものすごく落ち着くみたいだ。もしかしたらいつか装置を外せるようになるような気がする」
カインは手を差し出した。
「ケイナのそばにいてやってくれよ。これはケイナの友人としての頼みだ」
セレスは戸惑ったようにカインの手を見つめた。形のいい長い指だ。
カインの言葉はとても嬉しいものだったが、その手を握り返すことがどうしてもできなかった。
カインはしばらくそのままでいたが、やがてかすかにうなずいてセレスに背を向け立ち去った。
セレスはほうっと息を吐いてカインがつけたままにしていった海の映像を見つめた。

「いいのか、あんなこと言って……」
図書室の外に立っていたアシュアがカインに言った。
「こっちから挑発しちゃまずいんじゃないの」
「さあ…… どうなるかな」
カインはつぶやいた。
「ケイナはどうしてる?」
「部屋に戻った。今日はもう寝るつもりだろ」
アシュアは答えた。
「やれやれ、もうすぐ久々の休暇が来ると思うと嬉しいよ」
「休暇か……」
カインは目の前に霧がかかったような気がしたが、アシュアにはそれを言わなかった