08-6 見えない時間

 ケイナは自分が殴って傷つけた、切れたセレスの口元に触れたあと、ぐいっとセレスの顎を掴んだ。切れた口の端がぴりっと痛んだ。
「おまえの目は不思議な色だな」
ケイナは自分の顔をセレスに寄せた。セレスは思わず顔にかっと血が昇るのを覚えた。
彼の顔を見るにはあまりにも至近距離過ぎた。まるでキスでもしかねない近さだ。
「だけど、このおまえの目は今おれの姿を捕らえてないことを知ってるか」
「え……?」
セレスは目を見開いた。
「おまえの目はおれの顔を通り越してずうっとその先を見てる。自分では気づかないだけなんだ」
セレスは不思議な香りが自分の鼻をくすぐるのを感じた。
ミントのようなハーブの香り。ケイナがそばに来たときいつも感じる香りだった。
セレスはその香りを感じながら思った。
ケイナ、あんただってそうだよ。ケイナの目はいつも何が見えてるのか分からないよ。
ずっとずっと遠くを見てる。あんたがそうだよ……
ケイナはふいに突き放すように手を離した。
「もう行けよ」
彼は目を背けた。
「おれももう少ししたら部屋に戻るから」
セレスは急に態度の変わったケイナに困惑した。
「殴ったりして本当に悪かった。明日メシがちゃんと食えるといいけどな……」
ケイナは目を向けずにかすかに笑った。
セレスはしばらく待ったが、ケイナはそっぽを向いて窓の外からこちらには目を向けなかった。もうこれ以上彼は何も話してはくれないだろうということがひしひしと伝わってくる。
セレスはがっかりして立ち上がり、しばらくケイナを見つめたあとダイニングをあとにした。
「おやすみ。ケイナ」
それだけ伝えた。
最後にはいつもケイナは心を閉ざしてしまう……。
それでも、少しずつ彼は自分に近づいてきてくれている、とセレスは自分に言い聞かせた。

 セレスがダイニングを出ていってしばらくして、ケイナは近づいて来た影に振り向かずに言った。
「来ると思った」
「もう遅いよ。寝ないと」
カインはセレスが座っていた椅子に腰をおろした。
「腕に振動が伝わりでも?」
「心配ないよ。いたって平穏。ぴくりとも動かなかった」
カインは肩をすくめて首を振った。
ケイナは思わずカインを見た。カインは本当だというようにかすかにうなずいてみせた。
「さすがに彼を殴ったときはひやりとしたけれど。不思議だね。彼と一緒だと、きみはごく普通の感情表現ができるんだから」
ケイナはそれを聞いてふん、というように目をそらせた。
「どうして彼に二年前の話を?」
カインは尋ねたがケイナは答えなかった。
「本当に彼のことが気に入ってるんだな」
そう言うと、ケイナはじろりとカインの顔を見た。
「そんな目で睨むなよ」
カインは小さく口の端を歪める。
「こういうことも全部報告書にまとめるわけ?」
険を含んだケイナの声にカインはため息をついた。
「きみはやっぱり全部お見通し…… まあ、ぼくらも予想していたことだったけど」
ケイナはそれを聞いて嘲るような笑みを浮かべた。
「どうかしてるよ。おまえらが『ライン生』ですって通ると思ってたのかよ」
「普通はね」
吐き出すように言うケイナの言葉にカインは降参、というように手をあげ、そしておろした。
「所長はさすがにぼくらをジェイク・ブロードの担当にはしなかった。彼くらいだよ。きみみたいに見抜く可能性があるのは」
カインはメガネをとって目をこすった。ケイナを見ていると目が痛く感じられたのだ。
「セレスのことは報告するな」
ケイナの強い口調にカインは目をあげた。
「最初からそのつもりだよ」
カインはケイナの様子をうかがいながら答えた。
「そんなに彼のことが心配かい」
冷静を装ったがショックだった。いともあっさりとケイナを惹きつけた少年。いったい彼のどこがこんなにケイナの心を惹きつけるんだ…… ぼくらは途方もない時間を要したというのに。
「あいつは何にも知らない」
ケイナは椅子の背にもたれて天井を仰いだ。
「あいつは関係ない」
「そのわりには彼に近づくじゃないか。誰にも言ったことのない話をして」
ケイナは無言だった。
そうだよ、ケイナ。きみのやっていることは言葉と裏腹だ。
きみは今夜、ぼくらが今まで聞いたこともないほどたくさんしゃべった。
彼には早くハイラインにあがって来いとまで言った。
いったい何を考えてる。
「なんで18歳かな……」
ケイナは天井を見つめたままつぶやいた。
「おまえやアシュアや…… あいつにも。もっと時間があれば話せたのに」
カインは怪訝そうにケイナを見た。彼の顔には何の表情もあらわれていない。
「小さい頃からずっとデータをとられてた。遺伝子情報や運動能力や、生殖検査や…… なんだかんだと名目をつけてたけど、結局おれの体が…… 細胞がまるごと欲しいだけだ」
「細胞がって…… きみはリィ・ホライズン研究所監督下でこれからもずっとデータを取られることになるだろう?」
カインは目を細めた。ケイナが何を言いたいのか分からなかった。
「そうだよ」
ケイナは笑みを浮かべた。
「歳を取らずに細胞も死なない状態で、ずっと保存してデータを取るんだ」
「え?」
心臓がドキリとした。
「まさか…… 仮死保存?」
ケイナは冷ややかな目でカインを見た。
「やっぱり、おまえのほうが何も知らないんだ」
「ちょっと待てよ!」
カインは思わず声を荒げた。
「きみは人間だぞ! 仮死保存できるのは実験体の動物だけだ!」
「もともと住民登録もされていない『ノマド』出身のおれに、人間とか何とか主張する権利なんかねえよ。ましてや子供の頃の話だ。レジーはおれを引き取った時点でリィ・カンパニーとそういう契約をしてる」
契約? なんだそれ……
カインは呆然としてケイナを見つめた。
ちくしょう、トウは経済支援を盾にカート司令官を脅迫したな……
頭がくらくらした。ぼくは何も知らなかった。
いや、知ろうともしていなかったもかもしれない。カンパニーのやっていることなど知りたくもなかった。
健康体のケイナを仮死保存してカンパニーはいったい何をしようとしている?
「18歳など来なければいいって何度も思った。だけど…… もうどうでもいい。 眠ってしまえば何も分からない。夢もみない。なのに…… 時々怖くなる」
出会って初めて聞くケイナの弱音だった。反射的に腕を見たが、警報作動しなかった。
「きみらしくない言葉だな」
カインは動揺を押し隠して言った。ケイナは身を起こしてカインに目を向けた。
カインはその目に真正面から見つめられるといつも背筋に震えが走る。
「おまえはリィの後継者なんだってことは知ってた。 おまえが仮死保存のことを知らないのも分かってた。 何をどうしたっておれが18歳になった時の運命は変わらない。逃げも隠れもしない。でも・・・」
「でも?」
カインは内心挑むような気持ちでケイナを見つめ返した。
「最後までいてくれよ。ガードでもなんでもいいよ。眠ってしまうまでそばにいて欲しい。リィの後継者ならそれができるよな」
心臓が激しく動悸を打っていた。こんなケイナの言葉を聞けるなど夢にも思わなかった。
「リィの……」
カインは自分の声が震えるのをどうすることもできなかった。
「リィの後継者とか、任務とか、もうそんなんじゃないよ。友だちだからこそきみを守るし、いつでも…… いつまでもきみのそばにいる ……アシュアも同じだ」
ケイナはかすかに安心したような笑みを浮かべた。
「セレス・クレイのことも心配ない。きみが友人になりたいと思うのならぼくらの友人でもある。守るよ」
(だけど、カンパニーは甘くない……)
カインは心の中で付け加えた。