03-1 ケイナ

「ケイナ」
カインは足早に歩いていくケイナの後ろから声をかけた。
「ケイナ」
もう一度呼んだ。
いつもそうだ。慣れないうちは聞こえていないのかと思った。
何ヶ月かしてやっと彼は無意識のうちに相手の声の調子で自分が受け入れたくないことを言うかどうかを悟って返事をしないのだということが分かってきた。
アシュアが呼ぶと彼は振り返る。アシュアはうまくケイナに声をかける術を修得している。
『ぼくはどうもだめだな…… でなきゃ、よっぽど嫌われているかだ』
カインは思う。もう二年もたつのになかなか彼の心は氷解しない。
「ケイナ、悪いけど……」
「ヒマなんかねえよ」
肩を並べて言うカインの言葉が終わらないうちにケイナは吐き出すように言った。
「まだ何も言ってないけど」
「…………」
だんまりだ。こっちに目も向けやしない。
ガラス張りの廊下に差し込んだ光がケイナの横顔をくっきりと浮かびあがらせていた。
完璧なまでのシルエットだ。影だけみてもケイナだと分かるだろう。
「認めたくないだろうけど、教官からの指示だよ。飛び入りで見学者が来たからそっちに回れと」
「…………」
黙っている。了承したのか、それとも無視する気か。
ふいに彼は足を止めた。相変わらず顔は前を見つめている。
「ジェイク・ブロードは訓練よりこんなことをとるわけ?」
『ジェイク・ブロード』は教官の名前だ。
「おおかた持病の腰痛でも出たんだろ」
カインは彼が足をとめたことにほっとしながら肩をすくめて言った。
「ひとりだからすぐに終わるよ」
カインは黒いファイルを差し出した。
しかしケイナはそれを無視して再び歩き始めた。
「ケイナ」
カインは慌ててあとを追った。
勘弁してくれ。ケイナの歩幅は広すぎる。追いつくのがやっとだ。
「アシュアは」
ケイナは前を見たまま言った。
「アシュアはだめだ。カリキュラムが始まってる」
もう諦めようかと思った矢先、ケイナは手がカインの手のファイルを掴んだ。
「ブロードはもう軍科に生徒はいらないんだな」
ケイナはそう言って冷ややかな笑みを向けるとファイルをかざしてみせてカインに背を向けた。
カインはほっと息を吐いた。
ファイルを弄びながら歩いていくケイナの後ろ姿を見送ってカインはかぶりを振った。
いったいいつになったらまともにしゃべってくれるようになるんだか。
今日の見学者は不運だ。ケイナはどれほど冷たい仕打ちをするか分かったもんじゃない。
どうして彼はこんなにも人に対して冷たいのだろう。まるで憎んでくれとでも言わんばかりだ。
そして元来た廊下を戻ろうと踵を返しかけたとき、カインはふと目の端に映ったものにはっとしてケイナを振り返った。
ケイナの持ったファイルから奇妙な緑色の霧が溢れ出て彼の体を取り巻いていた。
しかしそれが見えた直後、ケイナの姿は廊下の角に消えた。
あのファイルには何と書いてあった? 誰の名前が書いてあった?
今から追いかけて取り戻せばケイナは会わずに済むか?
いや、一度受け取ったファイルをケイナが返すものか。余計に警戒させるだけだ。
「なんでもっと早く(見え)ないんだ……」
カインはいまいましげにつぶやいた。