セイル-03

(3)

 真由子が会社に入ってから一か月がたとうとしていた。
気が付けば彼女を中心によくあちこちで笑い声が聞こえた。
派手な身なりとハスキーボイス、ストレートな物言いと元接客業だけあって人当たりの良さはデスクワークの中のムードメーカーで、ランチのあとは皆でわいわいと笑いながら戻ってくる姿をよく見かけた。
仕事への向き合い方は変わらず真摯で、一生懸命にやろうとする姿勢は十分すぎるほど伝わった。
ただ、彼女に時間をとられるあまり、白帆は残業になることが多かった。
真由子が一か月にできた仕事はA4の書類一枚と、数枚の入力作業のみだ。
ある日、白帆はみなが帰ってから、そっと真由子のデスクの引き出しをあけた。
渡した本は変わらずそこにあった。
なんだろう、この違和感……
わからないことがあれば何度も何度も声をあげる真由子の様子が思い出された。
矢崎さんは真面目に頑張ってるわ。
技術を身につけたいって…… 頑張ってるわ。
だから私もそれに応えようと…… してる。
そのはず。
お盆の休暇を過ぎて8月の終わり近く、白帆は突然人事部から呼び出しを受けた。

「失礼します」
会議室に入った白帆はちょっと面食らった。
ずらりと人事部の幹部がテーブルに並んでいたからだ。
いったい何が始まるというのだろう。もしかして私は異動? それとも左遷? 解雇?
「どうぞ」
幹部たちの前にぽつんと置かれた椅子を指されて白帆はこわごわ腰を下ろした。
「アルバイトの矢崎真由子さんの件ですが」
言われて白帆はさらに面食らった。
矢崎さんの件? どういうこと? 彼女、何かしたの?
「一か月ほどたつんですが、彼女の様子はどうですか?」
「どう……?」
白帆は頭の中で必死になって言葉を探した。
「真面目で…… 頑張っていると思いますけど……」
「業務の面ではどうですか? 戦力になってますか?」
「それは……」
思わず口ごもった。
「でも…… この期間でだいぶんできるようになりました。時間はかかると思いますが、教えればもっと仕事ができるようになると思います」
精一杯に答えたが、返された言葉は無情だった。
「わかりました」
「あの……」
「もういいですよ」
一瞬視界がホワイトアウトした。
白帆は立ち上がるしかなかった。

 リストラだ、ということを教えてくれたのは深雪だった。
「バイトだけじゃなくて正社員もよ。もちろん優先順位はバイトだけど。うちでもチーフが人事に呼ばれてたわ」
「リストラしなきゃいけないくらいで、どうしてアルバイトなんて募集したの」
白帆は思わず憤慨した。
「ほーんと。ばかじゃないのって思うよね。」
深雪は顔をゆがめた。
「矢崎さん、辞めさせられるかな……」
「仕事できる子なの?」
白帆はためらいがちに首を振った。
「できないというより、今はできない、って感じかな…… パソコンに慣れてないから知らないこともわからないことも多いみたいで……」
「それはだめじゃない?」
深雪は言い放った。
「うちに入るのにパソコン慣れてないなんてアウトじゃん」
「でも、応募でちゃんと人選したはずよ?」
「ミスじゃない?」
「そんな……」
白帆は絶句した。
「じゃあ、指導してって言われた私はどうなるの? 矢崎さん、最初はファイルもフォルダもエクセルもわかんなかったのよ? そこから教えたのに」
「ばかねえ、なんでそんなこと教える必要あるのよ」
深雪は無下に言い放った。
「いまどき人に聞くまでもなくちょっと自分で調べりゃわかることでしょ。ちょっとググったら山ほど出てくるじゃん。教えるなら調べるほうよ」
「……」
白帆は茫然とした。 深雪の言うことは核心をついていた。
真由子はスマホは使えた。調べる気があれば自分で調べることはできたはずだ。
私は…… 指導の仕方を間違えていたの?
深雪の言うように、まずは自分で調べることを伝えていれば、彼女はもっと早くできるようになっていたのだろうか。
入れられたままの引き出しのリファレンス本が思い出された。
「ちょっと、そんな思い詰めた顔しないでよ。あたしだったらそうする、って話よ? あたし人に物教えるとか、そういう面倒なこと嫌いなほうだから」
深雪は笑って白帆の背を軽くたたいた。
「ねえ、それよりあたし、会社辞めようと思ってるんだけど」
唐突な深雪の言葉に白帆は仰天した。
「辞めるの? 何よ、いきなり。そのあとどうするの?」
まるでつかみかからんばかりの表情でこちらを見る白帆を見て深雪はちらりと笑った。
「フリーランス」
白帆はあっけにとられて彼女の顔を見つめた。
「そんなの…… 食べていけるの?」
「フリーのチームネットワークがあってね、プロジェクトごとに専門のフリーランサーがチーム組むの。アドグランの田中さんが今度退職してそういうネットワーク立ち上げるって。ディレクター数名引き抜いて出るから登録しないかって」
「アドグランって…… 広告会社の……」
「そう。フリーのいいところは縛りがないことよ。余裕があるんなら自分だけで仕事とってもいいわけだし、自分にできない分野が出れば仲間に打診できるし。しぃちゃんも一緒に行かない? 私、今はECやってるけど、もともとライターやりたかったのよね」
白帆は深雪から目をそらせた。
「今、抱えてる仕事もあるし…… 急には無理よ」
「別に今すぐってわけじゃないよ」
深雪は笑った。
「でも、10月には決着つけようよ。何なら二人でオフィスシェアしてもいいじゃん。考えといて?」
白帆は深雪の顔を見た。
「うん……」
そう答えるのが精いっぱいだった。

 人事部に呼ばれて一週間後、白帆は昼休みに化粧室でメイク直しをしていた。
がやがやと声がして真由子と千佳が入って来た。ふたりは白帆の顔を見るなり表情を強張らせてぴたりと会話を止めた。
なんだか妙な空気を感じながらトイレが流される音を聞き、やがて隣に真由子が立ったのを鏡の端で捉えた。
「佐伯さん」
真由子が呼んだので白帆は顔を向けた。
「私を辞めさせたほうがいいって言ったの、佐伯さんなんですってね」
「えっ?」
持っていたリップを取り落としそうになった。
「佐伯さんが会社に言ったんでしょ?」
「私、そんなこと言ってないわ」
白帆は答えた。
「言われましたよ、人事の人に。佐伯さんからそう聞いたって。私、8月でクビです!」
何も言えなかった。その可能性はわかっていたけれど、自分がその評価をしたことになっているなどと夢にも思わなかった。
「わたし、信じてたのに! 佐伯さんのこと、信じてたのに! 最低の女!」
真由子は白帆を睨みつけてそう言い放つと千佳とふたりで化粧室をあとにした。
白帆はただ立ち尽くすしかなかった。