セイル

(1)

会社までは電車で30分。降りて徒歩で5分。
「おはようございます」
「おはようございます」
オフィスに入ると新入社員の赤城千佳が手にしていたごみ箱を床に置いて笑顔を見せた。
屈託のない幼顔。でも白帆(しほ)はちょっと彼女が苦手だ。何を言っても
「はーい、わかりましたぁー」
「そうですねぇー」
にこーっと笑いながら間延びした返事をする子で、それが言葉と内心は全く逆のように思えてしまうから。
これって、いやーな先輩のお局思考? と思って友人の深雪に話をすると深雪はあははと笑ってうなずいた。
「ちらっと見ただけだけどあたしも苦手かも。でもま、ちゃんと仕事してくれりゃそれでいいじゃん。それ以上親しくする必要なんかないよ」
まあ、確かにちゃんと仕事をしてくれればね。
白帆は心の中でつぶやいた。
 白帆の会社はIT企業だ。社員も各部署合わせて80名ほどいる。
同期の深雪はEC部門にいるが白帆はWeb制作部門で、入社7年目の白帆は千佳ともう一人の新人、長野晴樹とデザイナーの加奈由美子、プログラマーの悠木和人を束ねていた。
とはいえ、実はつい最近までデザイナーとしてしか仕事をしてこなかった白帆にとってはプロジェクトのチーフになるのは初めての経験で毎日が緊張の連続だった。
加奈と悠木はもうベテランなので任せて大丈夫だが、新人二人に神経をすり減らす。
 赤城千佳はずば抜けて手が早いわけでもないし、遅いわけでもない。2日で仕上げてといえばきっかり2日で作業を終える。でもこれが怪しい。たぶん3日といえば3日きっかりかけるはずだ。2日でできる能力があっても3日かける。
だが厄介だったのは
「赤城さん、この妙なカンマはなに。それと、なんで音符マークなんかついてるの?」
白帆が千佳に指摘すると
「あ、だめですかぁー? かわいいと思ったんですけど…… だめですよねぇ、あははっ」
可愛く笑う千佳の顔を見て白帆の胃は痛む。
この子は自己判断で不要なことをよくしでかす。
 もうひとりの新人である長野晴樹は生真面目そうな雰囲気で、千佳とは対照的にぼそぼそと低い声で口数も少ない。
愛想が悪いわけではないけれど、手が遅い。必要以上に悩む。
「足らないことがあれば追加で指示を出すから、今言われているところだけ網羅してくれればいいのよ。手を動かさなきゃ仕事は進まないからね」
何度かそう言ったがあまり変わらなかった。
考え込み過ぎる性分なのかもしれない。
白帆のそんな日常を変える出来事が起こったのは、梅雨が明けてじっとりと熱い夏の日差しが見え始めた頃だった。

 急に部長に呼ばれてその話を聞いたとき面食らった。
「明日からですか?」
急なアルバイト採用。別に頼んだ覚えもないのに。
「出せる仕事ある?」
「そうですね……」
白帆は考え込んだ。
「いくつか書類を作らないといけないから、それを入力してもらいましょうか……。でも、なんで……」
「これからちょっと忙しくなりそうで、こまごました作業を担ってくれる人材が欲しいみたいなんだよ。女性だからきみのチームでまずは経験するのがいいかな、って人事が」
「そうですか…… わかりました」
面倒だな、と思った。ただでさえ新人の指導で大変なのに。
でもこの時期に臨時で採用されるアルバイトだからそれなりの力量があるのだろう。
事務的な処理だけでも手伝ってもらえるなら有難いのは確かだった。
しかし白帆の期待は大きく裏切られた。
翌日、アルバイトの矢崎真由子は元気に部屋に入って来た。
日焼けした肌に大ぶりのピアスをつけ、焼けたような茶色いロングヘアは脳天にお団子にして今からどこかに遊びに行きそうな雰囲気だ。
「よろしくお願いします」
ハスキーボイスで彼女はそう言うと丁寧に頭を下げた。
見た目よりは礼儀正しい。
「今日は何をしたらいいですか?」
「あ、じゃあ、こちらに」
白帆はアルバイト用に空けたデスクに彼女を促し、準備していた書類を出した。
「今までこの書式を使ってたんですけれど、ここの枠をもう少し大きくしてこことここにチェックする枠を差し入れてほしいんです。元はエクセルで作ってありますから、それをベースにセルを差し込んでもらえればいいですよ。最終、A4で出力できるように調整してください」
そこまで言って彼女の顔を見た。
真由子は睨みつけるような真剣な顔で書類を見つめていた。考えているのかな、としばらく待っていると、ふいに彼女は顔を上げて白帆を見据えた。
「あの」
「はい」
もちろん質問だろう、と思った。だが、その内容は白帆の意表をついた。
「あの、ショシキってなんですか?」
「…… えっ……?」
一瞬聞かれたことの意味がわからなかった。
言葉を失っていると彼女はもう一度言った。
「ショシキ、って何ですか? それと、なんだっけ…… エ、なんとかっていうのもなんですか?」
決してふざけているような表情ではなかった。
彼女は真面目にわからないことを質問している。
「書式っていうのは、ええと…… この紙のことです」
「紙がショシキっていうんですか?」
「あ、ええと、紙にこうやって、枠をとったりしてるじゃないですか? そういう状態の…… 表みたいに作ってあるのを…… 書式って…… いいます」
「はあ……」
曖昧に返事をして再び眉を寄せて紙に目を落とす彼女がそれで理解できたのかどうか白帆はわからなかった。
「エクセルは…… 動かしたことあります?」
その顔を覗き込むようにして尋ねてみた。
「何をですか?」
「エクセル」
「エクセルってなんですか? なんか乗って動かすんです?」
背後でふっと息を吐く気配がした。たぶん悠木和人だ。思わず笑いを漏らしてしまったのだろう。
「パソコン…… 使ったこと…… あるよね?」
思い切って聞いてみた。
「あります。ちょこっとだけネットするのに」
「ネット以外のソフトは使ったことないの?」
彼女はちょっと首を傾げた。
「ソフトって……?」
「あ、えと、ネット以外の目的でパソコン使ったことある?」
「ないです。ネットもパソコンではほんとにごくごくたまーにする程度で。スマホあるからそれで充分だし」
頭がくらくらした。
確かにスマホがあれば事足りることは多い。家にPCがない人だって普通にいるだろう。でも、IT会社にアルバイトで入るのにPCをほとんど使ったことがないって……。
「矢崎さん…… つかぬことを聞くけど、アルバイトはどういう内容で応募して入ってきたの?」
「業務の補助、ってありました。初心者OK、仕事をしながら技術を身につけることができます、って」
「……」
初心者にもほどがあるんじゃないの……? そう思ったけれどどうしようもない。
白帆はうなずいた。
「じゃあ…… 時間かかってもいいからひとつずつ覚えていきましょうか」
そう言うと真由子は嬉しそうに笑みを浮かべ、「はい!」と元気に答えた。